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前回は作家「大江賢次」氏の紹介でした.
著者:大江賢次 小説 舟木一夫、和泉雅子(昭和41年) いずれもWEBより ーーーーーーーーーーーー 前回(その1)の文中で叔母さん(たけよ)が登場する箇所がありましたが、この”たけよ”が当家から大江家に出向いた曾祖母(私にとって)です。 以降 たけ代と記して今回からはこれが主題となります。 ひとまず、大江賢次&「絶唱」は忘れておいてください。 たけ代さんは(明治11年生)明治36年、当家(拙宅)の繁次郎の後妻として隣村から26才で嫁いできました。 先妻”しん”は2年前に27歳の若さで亡くなったのです しんには3、6歳の女児がありたけ代は新婚早々から継母となって養育することになりました。 夫の繁次郎は税務署勤務で(しんはあととり娘で繁次郎は入婿だった)転勤も山陽地方まで広範囲でした。 今津家の家業の農業は祖父母に託し、家族4人は岡山、尾道、松山と瀬戸内の温暖な気候で楽しい生活(10年間)を送りました(小生の想像です)。女学校時代の卒業写真が残っています。 この頃がたけ代さんには生涯のうちで一番楽しかったろうと察します 楽しい数年は瞬く間に過ぎ、やがて地元の米子税務署に配属され我が家に帰った時には義父母もすっかり老いていました。 歳月は過ぎ2人の女児は成人し長女(民代は今津家のあととり娘で婿養子をもらい次女は嫁に出すやら、たけ代は一家の働き手となって我家(一時は8人家族)を支えて多忙な日々を送ったと想像できます。 しかし、賑やかな家族に不幸が訪れてきたのです。夫の繁次郎が大正11年で病没(享年47歳)し悲しみに暮れた明くる年の大正12年、今度は長女の民代が5人目の女児の産後が悪くて母子と共に急逝(享年29歳)したのです この間7ケ月の出来事でたけ代が今津家に嫁いで20年めの46歳の頃でありました。 何ということでしょう・・2代にわたって婿取りのあととり(後継者)娘が20代にわたって早死にするとは・・・・しかも婿までも・・・・ たけ代ー繁次郎には子供がなかったのですが民代の遺児(たけよの孫)が一男一女の幼子は8歳、4歳の少年少女(私の父、叔母)を2代にわたり遺児を養育する事になったのです 小生の父はこの頃を振り返って「あの時は母を亡くし本当に悲しくに通学するのも辛かった」と語っています。 たけ代は少女が幼かったため連夜抱いて寝て育てました。 (補足) 近年、たけ代の話題が出る度に年老いた叔母はそのことに触れながら「子供の頃は大変な世話になった・・・・」とボロボロと泣き出し往時を偲ぶことが多くなりました (その叔母は98歳の長寿を全うして本年3月に亡くなりました) 2代にわたって幼子を養育したたけ代さん、献身的苦労は察するに余るものがあります。 このようにして明治終期~大正年間は今津家を存続するための犠牲的精神には感謝、感謝の極みです。 ーーーーーひとやすみーーーーーー シルクジャスミン 「夏に芳香のある白い花をさかせます」と効能書きですが 立冬になって咲きだしました。 さて・・・・ 一方、大江家では 大江賢次さんの生母はたけ代さんの姉であり、これも後妻として大江家に嫁ぎました。 賢次(以降 敬称略)の姉(先妻の子)は幼少時にスペイン風邪(1918~1919全世界に大流行したインフルエンザ、感染者5億人、死者5,000万~1億人と云われた)で夭折し小学校は孤独な一人息子だったのです。 2代前は庄屋だったがお人好しの祖父の請判がたたって2代で没落して小作農家となっていました。 両親と3人での核家族?で貧乏小作農のため中学には行かれず小学校を卒業すると家族での野良仕事や好きな懸賞小説を投稿入選して稼いだり、伯備線工事人夫になったりでよく働きました。 <逸話があります> 大正の頃、酒造りは違法ですが各戸は個々、友達で密造酒が流行っていました 時折税務署の係官が違反者摘発に廻って来ていたのですが・・・ ある冬の日、若い係官が大江家にやってきて状況調査の応対にウロウロする夫に代わって、母(たけ代の姉)はサッと機転を利かせてこう言ったのです。 「旦那さん、うらの妹の連れ合いは知っちょうりますだらが(御存知でしょうが)同じ税務署で厄介になっておりますけん、そげだに、なんで我家が繁次郎の顔を潰すような事しますだらあに・・」 「それは それは今津さんとご親戚で・・・それもそうですな、密造はいけませんけんね」と言ってその係官は帰った その晩の母は大威張りで「とっさの事だったが、まいちょこいっちゃったわいなあ」 ※うまい具合に言ってやった。 ※まさかと思いますが、その係官は出し抜かれたと知りながら「知らぬふり」をしていたのかもしれませんね(笑) (大江賢次 著 「望郷」より引用) <アゴ伝>は語ります・・・・ 過酷な運命の試練が、21歳の私を待ち伏せていた。 母が疲れを出し入院手術することになったが昼は父と野良で働き夜は父と交代に病院に通って泊まった。 そうした時に叔母(たけ代)が朝鮮から看護に帰ってくれた。 この叔母は母の妹で子供がなく、母と同様の後妻に嫁いで先妻の娘二人を育てたが、連れ合いが死んで数年経って朝鮮に行っている次女のところへ身を寄せていたが、母の入院での知らせで帰ってくれたのであった ーーーーーーーーーー 3ケ月目に母は亡くなりこれを機に賢次は上京して、文学に専念しようと思い立った(大正13年) 小学校教師での恩師、池田亀鑑氏(後の東大教授、源氏物語研究の第一人者で有名)の世話で「実業之日本社」に入社し文学の道を学ぼうとした束の間、、、、 明年、父の急逝で彼はポツンと天涯孤独となってしまったのです <アゴ伝> 「あんまりだ! あんまりだ! 畜生,あんまりではないか!」と思い切り思い切り叫ぶと 「お前の父っつあんは母想いだったけん二人で連れなって、あの世へ旅立っただわいな」 と、叔母はせめてもの慰めに言った。 それがむしょうに腹がたって「生き残った俺を一人ぼっちにして・・・仲良うはあるもんか」 「いんや、お前の父っつあんはに酔うと、『ついでに俺が死にゃ、あの子も心のこりがせんでいいけん』ってよう(常々)云わさったぞい、ほんに・・・・」 「天涯孤独」---それは、私のために作られた語義のようなものだ。戸籍上、わたしはポツンとただ一人、しかも劣性遺伝ともいうべき醜悪のアゴをしゃくってこの現実に取り残されたのだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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