カテゴリ:自由欄
今回はその3で主題はたけ代さんとなります
賢次は一年のうちに両親を亡くしてしまって「天涯孤独」となり途方にくれてしまったのです。 21歳の夏でありました。 <アゴ伝>賢次の心境・・・クライマックスの一ページです 誰しもそうであろうが、不幸のどん底にあるとき、私はとりとめのない運命論者にならずにはいられなかった。 あまりにもたたきのめされると、もはた奮起の意力が喪失しつくしてしまい、運命の目に見えない鉄鎖はたち切れれるものではないのだ。 真実にみちた自殺が、例えようもなく私を誘い始めた ずっと前に神経衰弱になった時よりも、はるかにもっと激しい必然性をもって、私は死をあこがれ求めた。 私はあの世などは信じてはいない。死は一いっさいが無なのだ。 一刻も早くこの生の煩わしさをのがれまったくのゼロに帰したい。 ・・・・吹雪の夜ふけ、父がアメリカから持ち帰った西洋剃刀を右手に持って、最後の自分の姿を鏡にうつしてみた。 わりに平静である。みにくいアゴ、私をたえず卑屈にしたアゴよ、さようなら アゴを笑いものにした人々よさようなら。 やがて私は土の中に埋められてとなり、はかなく消え去ってしまう。 それでいいのだ。 鏡にうつる頸動脈の辺りが、かすかににピクピクと生を脈うっている。 私は追い立てられるよう気持ちで、剃刀を構えた。 と、その瞬間であった。 となりの間から寝巻姿の叔母がイナゴのようにとびついて、私の右手首をーーーー父と母の力をこめてーーーームズッと握ったのは。 そして、文盲の彼女の懸命な心に神がやどり、次の言葉を叫んだのはーーーー 「ああ賢め、この阿呆(ダラズ)めが!---ま、死んだと思や、 ほりゃーなんだてて、なんだてて出来んもんはないだに!」 すねた気持ちから、止めた叔母の力に逆らう身ぶりも恥ずかしいほど、私はポトリと剃刀をとり落とさずにはいられなかった。 その素朴な掲示を受けたときからだ、一瞬にして死がたまらなく恐ろしくなりもう一度ナウィーブな気持ちに返って「懸命に生きよう」と志したのは・・・ 「愛しやな賢、うらは息がきれるまでこの家で仏をまつって守るけん、 お前は東京なり上方なり何処なりと出て、思う存分やってみやれ やれるとも! やれるけん!」 「お前は今死んで生きただ、別な賢になったぞぃ。人間、いつでもじきに(すぐに)でも死ねるけん。 死ぬほど精をしぼって当たってみやれ! やれるとも! やれるとも! 」 と叔母はこの時初めて泣きながら うらはな、今津に嫁ってな 先妻の2人の幼子を大きくしたけん、 妹を嫁にやって 姉に 婿をとってやったのに若死されて・・・そのうえに うらの連れあいにも死なれてなあ がいに(大そう)悲しかったぞいな、 それでもな、それでもな・・・・ 誰にも負けん気で頑張ったけん、 うらも、おまえと同じ血が流れちょうがな! なんぼでも出来るけん! その翌年(1926年/昭和元年)は、私にとっていわば「第二の人生」の発足だといってもよかろう。 22の私は21で死んで生きたのだから、一歳の産声をあげたみずみずしさでたちふさがる現実と対決した。 神よ、この私に「七難八苦をさずけ給え」!と郷土の武将山中鹿之助が三日月に拝したと言うが「死んだと思えばーーー」を合言葉のように唱える私の前には、諸々の瞑想が雲散霧消しはてて、あたって砕けろ!の実践行動の具体性が、案ずるより産むが易しを悟らせた。 ーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーーーーーーー一部追記ーーーーー その後、父の負債をかたずけて家屋敷は叔母(たけ代)に託して彼は再度文学の道へと上京したのです。 彼の作家志向への努力は続きますが戦時色が一層激化して戦争へと発展してしまいました。 以降の作家活動、<プロレタリア運動>は「アゴ伝(自伝)に因ります(省略) 今津家ではその後、寡夫(善一)に後妻をもらって一男一女を養育し成人させました。 賢次の継母になったたけ代さんは彼が上京(昭和2年)してからは大江家で独りぼっちとなって預かった田畑で働き賢次のを楽しみにして終戦までの18年間も大江家を守り続けました 幸にして大江家と今津家は隣村なのでたけ代は秋祭り、農閑期、冬期にと度々自宅に逗留して亡夫(繁次郎)、亡子(民代)を懐かしんだという。 <親戚集まり秋祭り?> 昭和16年撮影 今津家で たけ代さんは右3人目(当時64歳) 凡そ、20年・・・山間の一集落(30戸)で細々と農業収入(他に亡夫の恩給)で苦楽をよくぞ耐え抜いたかと・・・・・慰労と感謝の言葉も見当たらずひたすらに頭が下がるばかりです これからの我が国は昭和時代に 世界大恐慌、満州事変、連盟脱退、2/26事件、日華事変(日中戦争)、太平洋戦争の暗黒時代へと進んでいくのです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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