カテゴリ:自由欄
ファミリーヒストリー 最終回となりました。
大江賢次が上京して作家の道を歩んだ時代、戦中での作家活動は(テーマではないので)省略します。 上京しての20年間もの長い間、郷里の生家をたけ代さんが一人で守って暮らしてきました。 昭和20年頃になると本土空襲も激化して家族(妻と三人の子供)は生家に疎開! 賢次は皇軍最後の招集兵となって南方方面で終戦となり、除隊後は家族、たけ代が待つ生家へと帰ってきました。 その20年間のたけ代との音信、里帰り等がどれだけあったのか私はまったく解かりません。 また、どのように暮らしたのかも不明で「聞いておけばよかったのに・・・」と残念です。 ーーーーーーーーーー 戦後4,5年経過後には私はやっと物心が付いた歳で5,6歳になっており、祖母と一緒に何回か遊びに行ったこともあったり、たけ代さんも我家に出かけてくれたのもよく覚えています。 ーーーーーーーーーーー 昭和26年になって賢次家族は再び上京することになったのですが、今度は生家を精算して東京に永住の道を選択したのです 賢次は20数年生家を守ってくれた老人を知らぬ都会に連れて行っていいものか相当悩みました。 その心情を知らない今津家の私たち兄弟は「お婆さん、行っちゃあダメだよ、いったらもう帰られんようになるからね」と しかし、賢次の強い希望でお婆さんはとうとう、一緒に上京しすることになりました たけ代「この歳で本当は行きたくないけどね・・・・・」 たけ代の心を去来するのはなんだってでしょうか? 先妻の子供と連れ合いとでの瀬戸内での生活、今津家での大家族の楽しい夕餉だったのか? 孤独な大江家の20年よりよほど我家に未練があったのかは想像に難くありません。 上京にあたり我家にお別れの挨拶に来た帰り道、丘陵の丘に登り眼下の米子平野と大山を正面に見ながら・・・・ 「こっちは自分の生家、あっちは大江の家、この場所が一番見晴らしが良くて田圃の帰りにはよく来たものだった・・」と そして、見送りに連れ添っていたわが母に次のように云ったのです。 「**さん、私が死んだらねその魂は今津に還るからね・・・・」と まだ若かった小心者の母は「ゾッー」としたという 後年になってから何度も何度もこの会話をしてくれたものです。 昭和26年ごろの今津家では6人家族でしたが、たけ代さんが今津家で一緒に暮らした者は父(幼少期)だけとなってしまっていたのです。 ーーーーーーーーーーーー お婆さんが上京して数年間はお正月が来る度にお餅を送ったものですが、その返礼に賢次さんは「雑誌、絵本」をたくさん送ってきて下さいました この頃、私の姉はお婆さんに手紙を出すと、カタカナ文で返事が返って来たという。 明治11年生まれ、小学校は、山陰の教育制度はどのようであったのかは知る由もありませんが、晩年までは「新聞小説」を楽しみに過ごしていたようです。 上京3年後の昭和29年の10月の夕刻でした。我家に一通の電報がまいりました。 「タケヨシス アトフミオオエ」・・・と 脳溢血が一瞬にしてたけ代さんの命を奪ってしまいました。享年77歳の生涯でした。 前半の20年は今津家、後半の27年は大江家・・・・・・ 紆余曲折があって、たけ代さんの意に反してその魂は今津家に還りませんでした。 たけ代さんの御霊は大江家で静かに眠っています。 両家のための犠打になってくれたその恩は決して忘れることはないでしょう。 このブログは「宮原のお婆さんのことを書くから是非読んでくれ」と親戚にお願いをしておきました このことが、せめてものたけ代さんの恩に報いる方法の一つだと思ったのです。 実話と想像を交えて書きましたが、これだけのヒストリーが書けたのは作家「大江賢次」著「アゴ伝」のおかげでもあります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー <あとがき>大山の紅葉見物で「絶唱」の文学碑が発端となって書き始めましたこのヒストリー、ついつい長くなりました。最後までお読みいただきありがとうございました。 <追記>お馴染みの小説「絶唱」は「アゴ伝 昭和33年発行」、以降の「書下ろし作品」(連載読み物ではないという意味)として発行されました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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