「つつじ祭り」のルーツは「ヤキモチ試食会」だった
今年は花の便りが早かったので(暖冬なので)つつじが満開となりました<玄関の>キリシマです毎年4月末頃は米子市の花「つつじ」にあやかって2日間に渡り会場が日替わりで「米子つつじ祭り」が行われます。初日は「BSS放送局前米子会場」、2日目は福市遺跡つつじ公園から「五千石会場」例年はこれが少し早く行なわれます、花期と催しが合わないのです今年で27回にもなるそうですが、早いものですねえ。-----------------さて、ここでとっておきの面白いお話に移ります 27年前の本当の話なんです。ある友人がその年の師走に独りで小生宅にやって来ました「なんと、IMAZUさん 彼方宅にイスヌカが残っておらんかえ?」イスヌカとは屑米(くずまい)の地方語で10月に収穫したお米のうちで籾摺り作業後に出てくる「未熟米、胴割れ米、しいな米・・・・」これ等をまとめてイスヌカと呼んでいて、もちろん人の食べられるお米ではありません。精米なんかすればお米にならず、ヌカになって実は殆どありません世の中は上手く出来ていて、毎年この頃になるとこのイスヌカ(3~5袋(1袋=30kg)ほど)を買取り業者がやって来ます。お金にすれば当時イスヌカ1袋は1,000円くらいしたのでしょうか? JAも公定価格で買ってはくれるようになっていました。しかし、ほとんど秋の収穫も遅くなってから主米の出荷が済んでからしばらく経ってから出荷せねばならないのでどこの農家でもこのような業者に売却してしまう事にしていたようです。このイスヌカでインスタントラーメン、砂糖に交換してもらうのです。我が家もドカッとラーメンをもらうとなんだか嬉しくなって「そんなに要らないわ、後は砂糖で勘定してよ」てなことで屑米すらリサイクルしておったのです。もっと昔のことを言えば、鶏のエサとして使用していました。また、このイスヌカを大きな鉄鍋で煮て牛馬のエサ「煮まぐさ」と呼んでいましたっけ・・・・その煮まぐさは所詮、お米ですので牛馬にとっては栄養満点です。「干し草、生草のまぐさ」にこの煮まぐさを混ぜてエサとしていた時代もあってどこも何も捨てることがなかったですね。これが本当の、エコライフ「物を大切にした時代」でありました。云いたくないのですが・・・・このイスヌカを升目の選別器で抽出してなんとか食い物になりそうな米のみを選別して米粉に砕いて野球ボールの大きさで両手で挟んで砂糖醤油で味付けして鉄鍋で焼いて出来上がったものが「ヤキモチ」なのです当時、巻き海苔なんて見たこともありません。驚くことに、このイスヌカ米のヤキモチは戦後の一時の貧乏時代の主食、おやつであった家庭ですらあったのです。友人もこのつらい戦後の食糧時代に想いを寄せていたに違いありません----------------------------イスヌカ談議が、長くなりました私「悪いけどもう遅かったわ、例のラーメン交換業者が来て全部売ってしまったぜ。しかし、そのイスヌカで何をしようというのだ?」友人「あのな、今の食べ物を粗末にする時代に対抗して戦後一時流行った ヤキモチを作ってみんなであの時の辛い思い出を語ろう会をしようと思ってね」私「だれが、そんなものに来るものか! それにしても貴君が考えたのか?」友人「自分の自治会で試食会をしようということになってその材料集めなのだ、味付けは金山寺味噌をたっぷり付けてかぶりつくのだ」といったから2度びっくりです私は、そのアイディアについその当時の貧困な食生活が思い出されてきたのですが会話はそこで終わってしまいましたがなんとか材料は集まったそうです。こうしていよいよ「ヤキモチ試食会?」が始まりましたが、皆さんはその行事を嘲笑して寄ってきた者はその自治会だけだったとか・・・その祭りに「ヤキモチ」披露されたか、売り物として出たのかは定かではありません。その話に尾ひれが付いて、公園のツツジの名前を拝借して第一回を「つつじ祭り」と銘うって行ったのが始まりでありました。------------------------------------こんな話は誰も信用にしてくれませんし、あの友人も最近身体を悪くして欠席が多いようです。この会場でわれわれ「アマチュア無線愛好家」は「移動運用」と称して「移動無線局」を設置して全国の皆さんに会場の催し状況を伝えたり、戴いたりして親交を深めることにしています。-----------------------------あいにくと、を忘れてしまいましたその事務所(無線局)が米子の児童文化センタに設置してあってメンバーなら運用は自由となっています夏物の定植時期ですね 苗屋さんは笑いが止まらないようです<アイリス>2年前の娘宅の建築で移植したのがやっと咲きましたあの熊本大地震の前に接ぎ木(栗)したのですがやっと芽が動き始めたようです接いだ時は真っ黒でした。