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昨日久しぶりにタモリ司会の「笑っていいとも」を見ているとき。
画面が切り替わり報道センターから流れてきたのが金総書記急死のニュースだった。 そのとき感じたのは独裁者と言われる割には「平凡な死」だなと思ったことだ。 独裁者全てが悪だとは限らないだろうが、国際的に(ほぼアメリカ主導で)悪の中枢だと決めつけられた独裁者の死というものは カダフィにしろフセインにしろかなり悲惨なものだった。 独裁者と呼ばれる人間はそういう惨めな死に方をしてこそ生前の行いの償いをしていくものだと思っていた。 それが視察中に過労からくる心筋梗塞で死亡だなんて拍子抜けもいいところだ。 カダフィにしてもフセインにしても死んだと判った時の、いままで虐げられてきた国民の喜びようと言ったらはち切れんばかりだった。 北朝鮮の国民からは今回そういったものが見られない。 悲しみで泣きながら喪服で死亡を報じた看板アナウンサーと金総書記の肖像画がある場所に集まって来て大声で無く市民や地面を叩いて嘆き悲しむ兵士の様子ばかりがテレビでは流されている。 当然そんな場面しか見せてはくれないのだろうが。 これじゃまだまだ北朝鮮に春は来ないようだ。 とにかく、良くも悪くも、もう少し独裁者らしい死に方をして欲しかったなぁと、変なところに気がいってしまった自分である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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