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小柴昌俊。御歳、82歳。9人目のノーベル賞受賞者である。
学生時代の成績はどうだったのであろうか? 先生は右足を引きずりながら、思い出したように話し出した。 僕の小学校時代の夢は、音楽家か軍人だった。 結局、勉強に励み陸軍幼年学校を受験することにする。 でも受験の直前、高熱にうなされる。右半身が思うように動かなくなる。 小児麻痺だった。当時いい薬もなく、体を動かす音楽家も軍人も断念するしか なかった。 アインシュタインの「物理学はいかに作られたか」を読んで感動した。 これが物理学とのご縁のはじまりとなった。 その後、名古屋から上京して旧制高校の一校に入学。 学費を稼ぐためアルバイトに精を出す。 寮の副委員長もやった。結構、忙しかった。 だから、勉強はからっきしやらなかった。 3年生の夏、進路をそろそろ決めなければならなかった。 理学部物理学科は最も難しい狭き門であった。 日ごろからドイツ文学はよく読みあさった。 寮の広い風呂場の湯煙の中から、寮生と教授が自分の噂話をしているのが 聞こえてしまった。 「 小柴か、あれは物理学はだめだ。まるっきり勉強しておらん。受験が ない文学部かどっかに行くのだろう・・・・・」 教授の言葉はショックだった。しょげるどころか、持ち前の負けん気がむくむくと 顔を出した。 「僕の寮の部屋は恵まれていた。秀才を捕まえて、俺の家庭教師をやれ。物理学科に 入学するのを手伝え」 その日から猛特訓がはじまった。見事、東大物理学科に入学。 余談だが、教えてくれた秀才も後に東大の名誉教授となった。 しかし、大学の授業はまったく興味が沸かなかった。 実験だけは好きだった。 そんな折、朝永教授を紹介される。物理学の話は聞かないが、酒を飲ませてもらった。 人柄に引かれたびたび家を訪ねた。 だから朝永先生が後にノーベル賞を受賞するほどの物理学の大先生だとは、 まったく知らなかった。 卒業後、アメリカに留学する際の推薦状も自分で「小柴は、勉強はだめだがセンスは ある」と書いて持ってった。そこに朝永は黙って笑ってサインだけをしてくれた。 そんな小柴が後にノーベ物理学賞をとるとは、その頃は誰も考えなかった。 今日はこの辺で・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.05.13 21:24:18
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