テーマ:近代化遺産を歩く(146)
カテゴリ:千葉
サイクリングの面白いところは様々な「発見」があることです。
オランダ風車到着後は帰路に向かいます。サイクリングコースには戻らず、四街道方面へ。夕暮れ時に差し掛かっていたので、明るい道を走りたいというのが理由。大日という住宅街を越えて、稲毛区に向かうのです。 不案内なので地図を広げてみました。 この交差点を左折か。あれ、ここは!! そこで見付けたのは、遠近(とおちか)交差点。 ここだったのか。地図 以前、四街道に「遠近(とおちか)」という変わった名前の土地があると、かっぱ画人さんのご長男に伺ったことがありました。 遠近=トーチカ。 トーチカとはロシア語точкаで、鉄筋コンクリート製の防御陣地のこと。もっと簡単に言えば、要塞。かつて、トーチカは日本各地にあったようですが、ほとんどは実戦に使われることなく、その役目を終えました。大きな物では、かつて紹介した函館要塞(現在、復元作業中)があります。 ここにもトーチカがあったそうです。 ☆★【35%OFF】ぷちらま/SSS-006CO ぷちらまコンバット 山間-トーチカ(ディディエフ)(フィギュア) ここは5差路になっていて、非常に見通しがよく、地理的に見れば、トーチカを置くには相応しい場所だったということは分かります。 さて、トーチカはどこにあったのか? 5差路の一角は空き地、ガソリンスタンド、個人住宅。近くに掲示された住宅地図を見ると、農場の表記がありました。 間違いない。ここだ。 農場はもともと旧日本軍の下志津演習場でした。おそらく、写真の木がある辺りがそうではないか、と思うのです。 戦後、戦争遺構は次々に壊されていきます。千葉には昭和20年、富津と館山から米軍が入り、同年10月には進駐軍は千葉市に本拠を置きました。 進駐軍の施策は、帝国主義的なものを破壊し、民主主義を広めることにありました。再軍備化の可能性を消すためにも、帝国主義の象徴であるトーチカが壊されるのは時代の必然と言えるかもしれません。 多分、トーチカは戦後間もなく壊されたのでしょう。しかし、トーチカは「遠近」という名前に変え、残った。なぜか? 四街道の人々にとっては、トーチカは戦争遺構というイメージ以上に一種のランドマーク的な役割を果たしていたのではなかったのか。 僕が佐倉の風車を目指したように、ランドマークというものは非常に使い勝手のよいものです。 例えば、地元の人が道を尋ねられる。 そんな時はこう答えればいい。 「○○さんちなら、トーチカを右に見て直進だよ」 5差路という入り組んだ場所を説明するのは非常に難しかったはずです。それがトーチカがあることで明解に語れる。 しかし、トーチカを残すことは進駐軍の意に則さないことでしょう。そこで、地元の人々は工夫した。「遠近」と漢字で示せば、アメリカ人には分かるまい。そして、トーチカは消えても、「遠近」は残ったのではないか、と。 それにしても、不思議な響きの場所ですね。 遠くて近い。一体、どっちなんだ?(笑) このトーチカ、実物はどんなものだったのでしょうね。興味津々です。 【この日のサイクリングデータ】 Dst 43.18km Av 20.2km Mx 53.3km Tm 2:07'50 MOLESKINE(モールスキン・モレスキン)スクエアード ノートブックポケットサイズ 去年の日記は? 2007/3/29 サイクリングのため、隠れ家に地図 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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