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June 29, 2019
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​Integrity 無き日本人が、メデイアが 沈黙を守る社会。それはお猿さん達の社会と同程度、或いはそれ以下であるのは間違いない、のでは・・・・?。

以下は、子供2人をあの「事件」で失い、「事件」の真相を追及し、状況証拠を積み上げてこられた小田氏の訴え書を少しでも広めれたらと、簡略紹介のつもりで、引用させていただいています。
 願わくば書を読んでみる気になられんことをいのりつつ・・・・

以下でアンダーライン、部分的太字等の強調は当ブロガーに依ります。また、窓からの写真は、ネットから入手したものを当ブロガーが挿入したものです。



日航123便乗客乗員怪死の謎

  524人の命乞い    』

小田 周二 著   2017年8月 

 

プロローグ

 

◆「遺族」となった、あの日

 

 1985年8月12日。あの日、私は1750分ごろに新橋の本社を出て帰宅の途についた。静岡工場から東京新橋の本社勤務となって一年。長く技術畑を歩んできた私も、スーツ姿での電車通勤にようやく馴染んできたころだった。

 地下鉄で渋谷駅まで出た後、世田谷区馬事公苑の社宅へ。電車の中で私は、英会話の練習にとシェルダンのブックテープをレコーダーで聞きはじめた。だが、聞き続けているうちに胸の中には不安感が募った。旅客機の墜落絡みの物語だったからだ。

 その日、当時高校一年生の次男と中学一年生の長女は妻の妹や二人の従兄だちとともに、奈良県の祖父母に会いに出かけたところだった。途中、大阪までは少しぜいたくをして飛行機。

私は仕事を休めなかったが、妻が一行を羽田空港まで見送りに出かけた。

 今ごろ、子どもたちは羽田を飛び立とうとしているはず。そんな時に墜落絡みの物語なんて。

イヤホンから聞こえてくる英語は、頭に入って来なかった。

 帰宅は1850分ごろだった。着替えてしばらくすると、どういうわけか急に腹が痛みはじめてトイレに入った。用を済ませて部屋に戻ると、テレビを見ていた長男がひきつったような顔をしている。

 「旅客機が墜落したようだ」

 まもなくして羽田から戻った妻は、墜落報道を知って激しく動揺した。

 「どこの会社?」

 日航の123便、羽田発大阪行き。

 妻の決壊したような形相を見て、私もすべてを悟った。この123便こそ、子どもたちを乗せて発った飛行機だった。頭の中が真っ白になり、しばらく立ち上がれなくなった。

 不思議な符合と言うべきなのだろう。私の腹が前触れもなくさしこんだ、まさにあの時、子どもたちが乗った日航機は墜落していたのだ。あの痛みは、機上で救いを求める子どもたちの言霊だったのかもしれない。後になってそう思った。

 この時から、小田家は崩壊した。私と妻、長男それぞれの人生はここから狂いけじめ、もだえるような悲しみと沸騰する怒り、汲めども尽きない疑問とに苛まれる日々が始まることになった。

子どもたちの遺体には会えた。

だが、人生をこれから謳歌しようとする年頃、夢いっぱいの子どもらが、なぜこのような最期を迎えねばならなかったのか。それを思うたびに、私は埋めようのない悲嘆と絶望の深い淵に沈んだ。

 あの日あの時、機内の子どもたちがどのような状況にあったのか。始め私たち遺族には知るべくもなかったが、123便の墜落事件では奇跡的に4名の方が重傷を負いながらも生還した。

その方たちの証言が明らかになるにつれ、私たちも墜落までの機内の様子をいくらか推測できるようになった。もっともその推測とは、子どもたちが味わったに違いない驚きと恐怖を思い描いては泣き、その苦痛を追体験しては嘆き崩れることの繰り返し、また繰り返しに他ならなかった。

 垂直尾翼が破壊される轟音を聞いた子どもたちの驚愕。

 酸素マスクを装着せよと言われた時の戦慄。

 機内がその後しばらく安定していたという証言はわずかな救いだったが、その安定もやがて断ち切られる。証言が1856分の墜落へと向かう時、乗客乗員524名の味わった断末魔の恐怖を思う私は、ただただ震えおののくばかりだった。

 生還者の一人、落合由美さんは言う。

 墜落直前、45秒前に突然にものすごい横揺れがあり、すぐに急降下が始まった。全くの急降下で、髪の毛が逆立つくらいの感じ、頭の両脇の髪が後ろに引っ張られるような恐怖の降下だった。乗客たちは、もう、声も出なかった。(以下略)


P46
  

 その後も123便の事件には、オレンジ色の残骸の影が付きまとう。

 墜落から数力月が過ぎた85年の12月に静岡県沼津市で、さらに翌86年の3月には同じく下田市の海岸で、オレンジ色のアルミ素材らしき何かの残骸が発見された。ところが群馬県警は日航機の機体とは材質が違うとして、この残骸の調査は行わなかった。

 これもまた奇妙な処理の仕方だ​ここでも交通事故に置き換えてみよう。転倒大破しているオートバイの近くに、別の自動車の破片が落ちている。そんな時、警察はこの破片がオートバイとは材質が違うという理由で調査もせずに済ますものだろうか。もしかしたらその破片はオートバイと接触した車のものかもしれないと考え、鑑識に回して徹底調査するのが普通ではないか。​

 見つかったオレンジ色の残骸がジャンボ機と材質が違うというのなら、何の材質となら一致しているのだろうか。そしてその物体は、123便の事件と関係があるのだろうか、それともないのだろうか。それを予断を持たずに調べてあらゆる可能性を探り、証拠に基づいてつぶしていく。それが事故調査であり、航空機事故の場合、その調査の担い手は事故調でなければならない。

 ところが、群馬県警は何かの貴重な証拠となるかもしれない物体を調査もせずに無関係と即断し、事故調には回送しなかった。漂着したオレンジ色の残骸は調査の俎上に載ることなく、葬り去られてしまったのだ。

 

30年後の写真解析

 
 

 異変が起きる直前、あの一人の乗客がカメラを123便の窓の外に向けて夢中で撮った空飛ぶ点影の写真。その写真が遺族の手に戻るまでにも謎に満ちた経緯があった。

 事故後しばらくしてこの乗客の遺族は、遺品であるカメラの中に墜落前の機内の模様を撮影したフィルムが入っていたことを知らされている。亡くなった肉親が、惨劇の前に見ていた光景。その中に、あの不思議な飛行物体の写真もあった。宙を飛ぶ点影は、カメラの主の命を奪った墜落事件に関わる何かを物語っているのかもしれない。遺族は早速、その写真をマスコミに公開したいと考えた。

 ところが、群馬県警がそれを制止した。写真週刊誌などに狙われて大変だし、重要な証拠書類になるので群馬県警で保管するというのがその言い分だった。​

 航路を特定するのに有力な証拠になるというのがその時の理由だったが、航路を特定するだけなら、CVR(コックピットボイスレコーダー)やDFDR(デジタルフライトデータレコーダー)など他にも客観的な資料はたくさんある。​それにもかかわらず群馬県警は、惨劇の犠牲者が最後に見たものを写したフィルムを遺族から取り上げて保管し続けた。このフィルムが遺族の手に戻されたのは、それからじつに5年の歳月を経て前橋地検の不起訴が確定した後のことである。​

 プロローグで述べたように、墜落事件の遺族たちはその間、ボーイング社と日本航空、当時の運輸省の関係者を告訴・告発している。事故調がまとめた調査報告書から導かれたのも、これら三者に事故を引き起こした責任があるという結論だった。ところが、前橋地方検察庁は不起訴を最終決定した。検察が事故調のシナリオに基づく立件は不可能だとした経緯はすでに述べたとおりだ。

​​ 群馬県警がようやく例のフィルムを遺族に返却したのは、この不起訴によって事故についてもはや誰一人として刑事責任を問われないことが確定した後、さらに付け加えればもはや過失致死事件としての「時効」が成立した一週間後のことだ。事件の原因解明や責任追及が宙づりになり、誰も責任を問われる恐れがなくなるタイミングまで、最も重要な目撃証拠の一つがしまい込まれていたということになる。​

 墜落事件から5年も経て遺族の手に返された写真は、ようやくメディアに公開された。機内で撮影された写真のうちの一枚には、客室乗務員が酸素マスクの付け方を乗客に教えている機内の様子も写っていた。墜落前の様子を生々しく伝える一連の写真は、さまざまなメディアに取り上げられた。その中で機体右側の窓の外に写っている飛行物休の写真も注目されはしたのだが、当時の技術では画像を十分に拡大分析できず、写り込んでいる点影が何であるかということについての議論は深まらなかった。

 だが、それから25年経ったころ、進歩したデジタル技術を使ってこの写真が分析し直された。

元日航乗務員の青山透子氏による『日航123便 あの日の記憶―天空の星たちへ』(2010年)はその解析結果を、以下のように報告している。

 「黒っぽい円形の塊の領域内は中心から右側へ帯状、もしくは扇状にオレンジがかっているのが分かります。円錐、もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見た様なイメージで、この物体はオレンジ体の方向から飛行機の進行方向へ向かっている様に見えますが……」

 断定はできないという留保を付けた上での言葉だが、この解析者のコメントは飛行物体の色がオレンジ色に見えること、ロケットのような形状のものである可能性があること、そして123便に向かって飛んで来ていた可能性があることを示唆していた。

◆自衛隊無人曳航標的機

 墜落事件のあった85年8月12日、静岡県の沖合では自衛隊によるミサイル訓練が実施されていた。それはあくまでも訓練だから、もちろん人間が乗った本物の飛行機やヘリコプターにミサイルを当てて撃墜するわけはない。訓練では通常、「無人標的機」と呼ばれる訓練用ジェット機が使用される。当時の自衛隊は「ファイアビー」と「チャカ2」という2種類の無人標的機を使っていた。どちらもリモコンで操作されるロケットに似た円筒形の小型ジェット機で、オレンジ色に塗装されていた。

 リモコン操作の無人標的機とは言っても、これらの標的機自体にミサイルを直接ぶつけるわけではない。艦上から発射された無人標的機はさらに鋼鉄製ワイヤーの先にトービーと呼ばれる曳航標的、つまり一種の吹き流しを取りつけて飛び、訓練ではその吹き流しをめがけてミサイルが発射される。

 無人標的機など、よほどの軍事マニアでもない限り知る人は少ない。ところが、この無人標的機がひょんなことから新聞紙上に小さく顔を出した。それは、123便の惨劇から1年半ほどが過ぎた87年4月17日のことだった。

 『朝日新聞』の「財産の守りは薄い防衛庁」と題された小さな記事。防衛庁(防衛省)が税金で購入した兵器や備品を失ったり壊したりしたことによる損害が、全省庁内の金品の亡失や損傷の中でも際立って多いのだという。財政上の観点からは問題に違いないが、その内容は一見すると123便の墜落事件とは結びつかない政治経済の話だ。

 ところが、2000字に満たない記事を丁寧に読むと、そこには防衛庁による財産亡失の典型として、しっぽの吹き流しなどを狙うはずの高速標的機を実際に撃ち落としてしまった、という珍妙な事例が挙げられている。吹き流しを曳航して飛ぶ高速標的機。例の無人標的機のことだ。

 

 記事は8511月から8610月までの1年間の亡失・損傷(1420万円)について報じている。だが、これは亡失や損傷が簿外処理されたのがこの期間だったというに過ぎない。

 実際にこの標的機が失われたのは、いつだったのだろうか。​そして、その標的機を実際に撃ち落としてしまったために亡失したという説明は、本当のことなのだろうか。​

 

◆告白-最後のパズルピース

 

 これまでの31年間、さまざまな形で墜落事件にちらついてきたオレンジ色の影。それは、ばらばらに散らばったオレンジ色のパズルのピースだ。

 そのいくつものピースを一枚の絵、すなわち意味を持った一つのストーリーとして再構成するために必要な最後のピースが手元にある。ある方から得た一つの情報である。

 85年8月12​日、123便が墜落したその日、ある航空自衛隊の基地司令官(当時)から一人の男性に電話が入った。この司令官は、電話の向こうで男性にこう語った。​

 ​「えらいことをした。標的機を民間機に当ててしまった。今、百里基地から偵察機2機に追尾させているところだ」​

​ この司令官と男性とは、第二次世界大戦中に同じ部隊に属した戦友だった。共に同じ戦争の時代を過ごした軍人同士の絆は強く、長い年月を経ても相互の信頼は厚いと言われる。その信頼ゆえの気安さだろうか。電話口の向こうで語る基地司令官の声は、まるで「やっちまったよ!」とでもいうようなあけっぴろげな調子に聞こえたという。​

 旧知の戦友に、ちょっとした事故を起こしたという感覚であっけらかんと語られたこの言葉こそ、123便を襲った惨劇のきっかけが何だったのかを雄弁に語る告白ではないだろうか。

そう考えるなら、ヒースはすべて組み合わされ、パズルは完成したことになる。123便の事件につきまとって離れなかったオレンジ色のピース、すなわち航空史上最悪の墜落事件の発端は、オレンジ色に塗装された自衛隊の無人標的機の衝突だった。

 

 123便を見舞った惨劇のきっかけは、おそらく次のようなものだった。

 85年8月12日、自衛隊の訓練中に使用していた無人標的機が何かの理由で本来の軌道、予定していた飛行経路を離れ、コントロールできない状態に陥った。無人標的機は伊豆半島東方へと向かい、付近を飛行中だった123便の針路に接近した。

 123便の機長らは離陸態勢から巡航飛行に移ろうとしていた矢先、自機に近づくその飛行物体に気づいた。コックピットではにわかに緊張が高まった。いったんは消灯していたシートベルト着用サインを再度点灯させたのは、この飛行物体の急接近に気づいたからだ。自衛隊出身の高演機長は、それが軍事関連の飛行物体であることに気づいた可能性もある。サインを再点灯させたのち、機長らは回避行動をとろうとした。

 同じころ、123便の客室でも乗客の一人が窓の外に小さな飛行物体を見つけた。それが何であるかは想像もできないまま、彼はとにかく夢中でシャッターを切った。(以下略)

 

 その直後、機体後部の上方で破壊音が響いた。軌道を逸れた無人標的機が機体後部の上方、つまり垂直尾翼中央部に衝突して起きた衝撃音である。その衝撃で客室内には酸素吸入マスクが下りて、乗客たちはにわかに緊張した。一方、破壊音をコックピットで聞いた機長は、警戒していた飛行物体が案の定、自機にぶつかったのだと即断し、ためらうことなくスコーク77発信した。

 無人標的機を民間機に衝突させてしまったという事態に驚愕した自衛隊は、ぶつけた相手である民間機、すなわち日航123便のその後の様子を確かめるべく、すぐに航空自衛隊百里基地から2機の偵察機を発進させたのである。

 

​蘇る雫石事件の悪夢​

 

 無人標的機を民間旅客機に当ててしまった。

 この情報は無人標的機を使った訓練を行っていた部隊の指揮官から基地司令官、陸海空3自

衛隊の最高幹部である各幕僚長から加藤紘一防衛庁長官(当時) へ、さらに軽井沢で静養中

​​​だったという当時の(中曽根康弘)内閣総理大臣にまで伝えられた。

​​​(書からの引用は以上)

【参考写真】​


​​


「本当のところはどうなんだ」と心に思われた方は、小田氏が書中で触れている、最近の元日航スチュワーデス青山透子氏の著書や、横田米軍の友人に墜落現場で入手した破片を見せたところ迷うことなく『それはミサイルの破片だ』と返されたとの記述を含む、東へ迷走中の123便と自衛隊機2機の追走を山梨県で目撃している角田四郎氏「疑惑」を読んでみていただきたいと・・・夜中12時前に既に中曽根総理の別荘のある『日の出村』の棺桶製作業者に棺桶524個以上が発注されており​入先指定が藤岡市の(後に遺体収容場になった)場所になっていた、という事実も確認されています、他にも隠ぺいされてしまった生々しい事実が・・・  墜落場所特定公表が、翌朝5時頃であったにもかかわらず、である・・・・​

以上。


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Last updated  October 14, 2020 08:17:03 PM
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