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1945年の1月から8月のメイン・イベントを概観してみると、
何かしら大いなる" WILL" の息吹きを感じるのは私だけなのでしょうか。 「政治には偶然に起きるものは何もない。何かが起きればそれもそのように計画されていたと考えて間違いないのだ」(F・D・ルーズベルト) 【1945年】 ≪注:1月2日を1.2 と表記。以下同様。≫ 1.20 ルーズベルト大統領、4期目の就任式。 1.20 トルーマン、副大統領に就任。 → "Harry Solomon Truman"・・・ "Zionist" "Grand-Master" FreeMason (不思議なことに、トルーマンはルーズベルトとは1度しかあったことがなかった。 1944年の民主党大会で、副大統領候補として指名された。) 2.4~2.11 ヤルタ会談(米:ルーズベルト、アルジャー・ヒス、ハリー・ホプキンズ特別補佐官。スターリン。チャーチル) ・・対日ソ連参戦、ドイツ・朝鮮分割、戦後処理の枠組) → この時のルーズベルトは、動脈硬化に伴う多発性の微小脳梗塞に襲われる病的な状態だった。 → 2.8 米ソ首脳会談(アヴェレル・ハリマン大使、モロトフ外相(ユダヤ)、通訳各国1名のみ同席)で、 「極東密約」・・・極東領有権拡大(南樺太の返還、千島列島のソ連取 3.10 午前零時過ぎ、東京大空襲、「夜間低高度無差別爆撃」。→ 325機の爆撃機B29が来襲。B29の航続距離:6,600 km(爆弾7,250 kg搭載時)→ グアム・サイパン・テニアン他基地から。→ 死者約10万5千人。 4.5 ソ連、日ソ中立条約延長を拒否通告。 4.12 ルーズベルト不審死(頭痛→心臓薬) → 副大統領トルーマンが大統領に。(CFR会員) → ジョージア州Warm Springsの療養施設で温浴中 に死去 → その時ヘンリー・モルゲンソーJrが居たとの証言あり (当時の市長) → 遺体検死されず → 同州マコン市で荼毘に。 → 遺骨(灰)がワシントンに・・・→ 療養施設は ロックフェラー家が提供したものだった。 → スターリンが新聞にコメント、"The body did not lie in State " 「遺体は正装安置されていなかった」 グルジア人(現ジョージア)のスターリンの本名は、 " I.V. Dzhuashvili or Djugashvili " = " son of Jew" 4.28 ヒトラー、死を覚悟し、エヴァー・ブラウンと結婚手続をとる。ムッソリーニ、ゲリラに銃殺さる。 4.29 ヒトラー、「政治的遺書」「私的遺書」を口述し、ボルマンを私的遺書の執行人に指定。→ 後任の国家元首にカール・デーニッツ海軍元帥を指名。 4.30 ヒトラー、毒薬・拳銃自殺。妻のエヴァー・ブラウンと共に。 7.25 米スチムソン陸軍長官(スカル・アンド・ボーンズ会員。トルーマンより格が上。)が日本へ原爆投下の指令発出。→ 投下都市の選定に入る。 7.26 ポツダム宣言(米英中) 7.28 鈴木貫太郎首相、「ポツダム宣言黙殺と戦争邁進」を表明。(軍部強硬派に対する配慮から。ソ連参戦の口実を与えた。) 8.6 広島原爆投下。(ウラン原爆;核出力TNT換算約15kT)→ B29高度約1万mで投下、地上約600mで核分裂爆発。市中人口約35万人。 8.7 赤十字国際委員会の代表団が来日。→ 4月に皇后が申し出た寄付金1千万スイスフランにつき、 日本政府と手続きを終える。 8.8 ソ連対日宣戦布告。(モロトフ外相、佐藤尚武大使を招致の上、布告文を読み上げ、これを 手交した。)→ 大使館の電話回線は切断されていた。 8.9 午前零時、ソ連軍、満州に侵攻開始。 8.9 (11:02) 長崎原爆投下。(プルトニュウム原爆;核出力TNT換算20kT) → 死者約73,900人、 負傷者約74,900人 8.9 御前会議にて、国体維持を条件にポツダム宣言の受諾を決定。 以上、概観でした。 スターリンのコメントの意味が正確には理解出来ないのですが・・・ 何かを感知された方は各自調査されんことを! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 26, 2021 12:33:52 AM
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