人類滅亡か人生百年時代か
前回もそうだったが、ヒラリー・クリントン優勢なんてニュースを聞くたびに、ノストラダムスが流行った頃に読んだ誰だったかの予言の書を思い出す。アメリカに女性大統領が誕生し、その大統領が核のボタンを押すというものだ。延期されたというフォトンベルトの時期はいつのことだったか。皆、勝手なことを言っているとあの頃は思ったが、遠くに感じられた2020年はもうそこまで来ている。こうなりゃやっぱり劇的変化をこの目で見るべきかなどと時には思う。そうそう、現皇太子が天皇になられる頃からが恐いという予言でもあった。昨日はなぜかAさんのことを思い出していた。よく知っているともいえない間柄なのに、ある昼、大阪の恋人になってくれないかと言いにきたのだ。Aは普段は九州の実家のどこだかに住んでいた。Aは日本国中どこにでも行くような仕事だったから住まいはどこでも良かったらしいが、ついこの間結婚したばかりの人だった。私は新婚間なしなのに信じられない行為にでる人にえらい目にあったことがあったから、そういう男もいるんだと思う一方、その奥さんに哀れみも持ったから、「奥さん可哀そう」なんていって笑っていたのだが、「あれは押しかけ。しようがなくってね。俺、その前にずっと長いこと好きだった女がいたんだけどどうしても言えなくてね。そのうち結婚しちゃって。その時俺決めたんや。これからは好きな女が出来たらすぐ言おうって」それから後、昼食を終えて社に帰るまで何を喋ったかは全部忘れてしまった。センスは良かったし、嫌いなタイプではなかったから話もしていたが、大真面目な笑い話である。ずっと忘れていたのに、急になんの意味があって思い出したりしたのかな~と考えた。Aは私より何歳年上だったかしらん?今は何歳なのかしらん?と思い出そうとして、あ~もしかして死んじゃったのかな~と思った。長く忘れていた人を思い出すと皆死んじゃったような気になる。そういう年になったということだ。子供の時、同級生のおばあちゃんが亡くなった。五十何歳かで、年だからしようがないよねと皆が言っていた。そのせいかどうか、私は五十六十というと、今でも死ぬには十分な年だと考えているようなところがある。人生という名の筒にぎっしり中身が詰まっていれば五十六十で十分だ。しかし他方、やりたいこと、ぜひとも成し遂げたいことがある人は百でも百二十でも生きればいいと思う。少年の心持つ人だね。しかしこの頃は人のことはよくわからなくなった。若く見えるはべつに構わないし、若作りも悪くはないが、中身かすかすで若く見えたって魅力はないのに、種子戦争で育った者は、昔の五十年が積み上げたものを百年かかって積み上げるということなのかもしれない。