風と共に去りぬを観る
『風と共に去りぬ』が、上映禁止だか、配信停止だか、世界的デモに発展した黒人差別問題の関係で、あらためて検討されて、そういう措置になったとかいう報道を聞いた。二年位前だったか、実に「タイミングよく、、」と、その方は仰っていたが、聞くシネマの方と知り合いになった。その方は齢八十を過ぎておられるが、今から十年かけて、その生涯の最後の作品に『風と共に』を創るという一大決心なのである。幼少時に観た南北戦争の、空が真っ赤に染まったシーンの驚き忘れ難く、そのシーンを、目の見えない、耳だけで見る?人達にどのように伝えるか、そこが一番の悩みの種なんだそうだ。風と共にで始まった映画人生を風と共にで終わりたい人は、ながい、なが~~~い電話をたまにかけてくるようになった。私が風と共にを読んだのは中学の時で、映画を観たのは津雲むつみの漫画を読んだと同じ頃だったと記憶するが、映画はあまり記憶にない。なぜといって、私の風と共には、小説だけで充分だったからである。読み返しはしないが、一番が小説。二番が漫画。映画はその次。しかしスカーレットとレットは確かにヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル以外にはいないだろうとの世間の評判はよく分かる。聞くシネマは小説からの想像ではなく、映画を聞かせるのだから、それさえも伝えたいのだろうと思ったから、生涯の最後の大仕事に何も協力出来ない私は、せめてもの参考になるやならずやと首をひねりながら、あまり進んでということも、あまり嫌ということもなく、何十年か持っていた津雲氏の漫画をプレゼントした。そのことをいたく喜んで下さって、それは少しオーバーすぎる感謝だと思うが、実に長い電話がたまにかかってくるのだ。私と長時間話をするなんて無謀で、そんなことをすると、映画の話も漫画の話も、どんな話も、大抵は仏教や神道や最後は精神論で、要は生き方死に方の話に行きついてしまうわけで、年をとればそれは苦痛ではないのか、それとも仰るように、私の話から奇跡の物語を思い出され、それがまた嬉しいのか。しかしともかく、大したプレゼントでもないのに、大仰に私を聖者扱いするから、私としてはその長い電話が、たまにではあるけれども苦痛で、しかしまたその進展具合も多少は気になるわけで、『風と共に』はここ二年、どこかしら頭の片隅に居座っていたのである。そうして昨夜ようやく、見よう観ようと思いつつも買ったまま放置していた『風と共に』を観た。しかしやっぱり私としては小説である。。。ところで、富裕層達が出て来る映画では、黒人召使たちはその家の子供教育に大きく関係していて、子供たちは大抵その下僕達に大いなる愛情を抱いて大人になっているように見える。が、社会的地位は当然低く、数多の物語に描かれているように黒人はひどい扱いを受けてきている。黒人たちだけではない。この社会は差別なしには成り立たないように出来ている。私なんぞも大いなる差別の元、生きて来た。それを声を大にして叫ぶ人もあれば、私のように全然声を上げないものもいる。個人個人を見れば、自分の近くに誰かそういう人がいようが、ほとんどの者は皆親切で慈悲深く善人そのもので、恨むべき人などいない。もしいればそういう人は糾弾されて然るべきである。しかし、個人を離れて、社会となればこれがまったく変わる。私は何十年、生きて来た過程でそれを時に考えた。考えたとて分かることではないし、分かったとてたいして社会的には何かを大きく変えられるというわけでもない。仮にこの差別問題が解決したとしても、人間社会はまた別の差別をつくる。優位に立つ。優位を保つ。人間に欲のあるかぎりそれは続く。