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ひよきちわーるど

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2006.06.08
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カテゴリ:法華経


娘が自然学校に行きまして今日で2日目です。

改めて 我が家が
娘を中心に回っていたのだと言うことを発見致しました(笑)。



昨夜ね、夫がぽつりとこんなことを言うのです。

「みいちゃんが嫁に行ったら淋しいやろな」



遠い将来 娘がボーイフレンドを連れてくるのを怖れ(笑)
「絶対俺は会わへんからな。」などと言っている夫です。

私には息子がおりませんから
そう言う夫の気持ち、想像するしかないのですけれど
やはり一抹の淋しさがあるのだろうなと思うのです。





・・・娘が我が家にきてくれて、夫も私も随分変わりました。

まさに「育児」は「育自」。
娘によって教えられることもたくさんあります。




我が家では毎朝夕 仏前にておつとめをするのですが
娘のおつとめは長いのですね。
じっと仏壇の前で祈っているのです。


・・・何をそんなに祈っているのだろうと思いました。


娘にきいてみましたところ
「戦争がなくなりますようにって祈っとんねん。」と。

「でな、世界中の不幸な人が
 幸せになりますようにってお願いしとんねん。」とも。





夫が出掛ける前には 娘の厳しいチェックが入ります。
夫がきちんと仏前に座り
「行って参ります」とご挨拶するかどうか見張っているのですね。

で、我が家では
炊きたてのご飯はまず仏前に供えることになっているのですが
私、時折忘れてしまうのです(!)。

そうしますとすかさず娘の厳しいチェックが入りまして
「お母さん!ちゃんとお供えしたの?
 忘れるってどういうこと!」って。

こういうときには親とか子どもとか関係ありません(笑)。
「ちゃんとしなさい!」とまるで仁王さまのように立ちはだかり
私たち親を監督する娘です。






随分前のひよわーるどにも書いたと思うのですが
もしも私が男性として生まれていたならば
今頃 薄墨の衣を身に纏い本山か末寺だかにいるはずなのです。

けれど女性として生まれてきたばかりに
所化として本山に上がることができなかったのですね。

ある程度の年齢になりそのことを親に聞きましたとき、とても落ち込んだのです。

私は過去世の修行が足りなかったから
今世では本山に上がることも叶わなかったのか、と。

在家として生きていって 一体なんの甲斐があるのかと。



しかし、40歳になりました今
私の人生はこれで良かったのだと思うのです。

詳しい経緯はここには書きませんけれども
在家として生きてきたからこそ 今もって信仰を続けていられるのだと。

もしも男性として生まれ出家していたとしたら
おそらくは途中で信仰から離れていったのではないだろうかと。






自分自身がそういう状況でしたので 結婚してからは
やがて生まれてくるであろう我が子のことについてずっと祈っておりました。

確かに夫にも私にも「女の子がいい」「男の子がいい」などと
それぞれ希望はありました。

しかし、我が家に生まれてくる人が
一体どちらの性に生まれついたならば信仰を全うできるのかと
全うしていくためであるならばどちらの性になっても良いではないかと
そう祈っておりました。





娘に信仰を伝えていくと言うことは 
自分自身の、信仰への姿勢を問うことにも繋がります。

自分は何を祈るのか、何故この信仰を続けるのか。



こんなことを言うのはおかしいことかもしれませんが
神仏に対し「○○してください」とお願いするのは嫌いなのです。

自分の人生における様々なことを
神仏にまかせてしまうということが納得できないのです。

神仏が私たち人間の上に君臨するという考え方にも疑問を抱いています。



神仏もしくは自分を遙かに超える偉大なものは
自分の中にもともとそなわっていると思います。

何処か遠い西方浄土に仏がいるわけではない。
私自身、あの世に行って幸せになるという考え方にも同調できない。

この世で幸せになれないものが
どうして他の場所で幸せになれるのかと思うのです。



仏前に座り祈る時には
「○○してください」と祈るのではなく
「○○します」と宣言しています。

「そのための力を我に与えよ」ではなく
「そのための力を我よ、存分に引き出せ」と祈ります。

天に「○○してください」と縋るのではなく
天に対し 我に味方せよと詰め寄ります(笑)。




こういう考え方を最初からしていたわけではありません。
私自身、幼い頃は「お願いします、○○して下さい」と祈る人間でした。

しかし法華経について学び そして夫と語り続ける中で
そういう他力本願的な祈りではいけないと思い始めたのかもしれません。




・・・・しかし 正直に書きますけれど
神仏に対し「○○して下さい」と願わなくなりましたとき
途方もなく不安になったのです。心細くなったのですね。

支えといいますか、拠り所がなくなってしまったという感覚だったのです。

それまでは 自分の上に偉大な絶対的な存在があり
その存在に全てを委ねるという考え方をもっていましたので
突然、その頼りとすべき神仏を自分の頭上から取り払った途端
私は何処に向かって歩いていけばよいのかわからなくなったのです。

その状態は数ヶ月続きました。



しかし、人間の上に絶対的な神仏を据え
その神仏と人間との間の仲介者・・・聖職者をおいた時点から
全ての宗教の腐敗、形骸化は起こるのではないだろうかと。

人間を弱きもの、神仏の下に据えておくべきものであるとする考え方は
私たち人間の尊厳を根こそぎ奪い取ってしまうものではないかと思ったのです。

これでは従順な、意志を持たない羊になってしまう。

神に仏に縋ってさえいれば幸せになれると そんな風に思っていては 
この生死の海を独りで渡っていくことなどできないのではないかと思ったのです。

死の怖ろしさを乗り越えるためには自分がつよくなるしかないと思いました。






よく宗教をしている人は弱いと言われます。

自分以外の何かに縋り 意志決定を他に委ね
何の努力をすることなしにただ功徳だけをこいねがう。

そんなことだから弱いのです。
そう言われて当然です。



信仰とは自分を見つめ 律することではないかと思います。

信仰をもったからといって
安穏な、何の苦しいこと、悲しいことも起こらないというわけではないはずです。
いろいろなことが起こって当たり前だと思うのです。

何かが起こった時に
それでも前に進むことができるか。自分に負けずに生きていけるか。
そのための信仰であるはずです。






よくね、理想主義者だと言われるのですね(笑)。
現実を見ろとも言われます。

現実を見て意気消沈するのではなく ニヒリズムに陥るのではなく
それでも理想に向かって生きていたい。





だって人間って その一生を通し
理想に向かって生きていく存在ではないですか。
















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Last updated  2015.10.24 22:14:56
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