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ひよきちわーるど

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2006.10.07
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カテゴリ:思い出の人

数日前 よく行くスーパーでの出来事でした。

夜の9時過ぎでしたでしょうか
高齢の方が手押し車を引きながらレジを済ませておられました。
たくさんなお買い物で いくつもの買い物袋を手押し車の中に。

・・・ふと その高齢の方は私をご覧になり「電話、電話・・・」と仰るのです。
なんのことかな・・?と思っていましたら どうやら公衆電話をお探しの様子。
それで私も一緒になって電話を探すことに致しました。
あちこち探しておりますうちスーパーの隅の方にようやく発見。

その方に場所をお教えしましたところ
今度は「財布を探して」と仰るのです。

お財布の場所なんて私に分かるはずもないと思い
そしてそんな大事なもの、全くの他人の私が探してよいものか躊躇しながら
一緒に探すことに致しました。

結局探し物のお財布はその方の上着のポケットの中に入っておりまして
その方はご自宅に電話をなさいました。

私、もう帰っても大丈夫かな?と思いご挨拶して帰ろうと思っておりましたら
その方が電話口にて 大声で「なんで?」と仰っているのです。

お話を伺っておりますと どうやらご自宅の家族の方がスーパーにまでお迎えに来られない様子。
その方も「どないしよう。こんなようけ荷物あるのに」と困っておられました。

拝見しますにかなり高齢の方のようですし おまけに手押し車の中にはたくさんの荷物。
しかも夜の9時過ぎなのです。
10月とはいえ、夜ともなりますとかなり冷え込みます。

・・・差し出がましいようではありましたが 私、その方に
「おかあさん、私でよければお送りしましょうか?」と申しました。



私の車は軽ですが 手押し車などは後部座席に置けばなんとか大丈夫のようです。
それでその方には助手席に座って頂くことに致しました。

ご自宅はスーパーの近所でして すぐ帰り着くことも出来ひと安心。

車のなかでその方は
「子供らに食べさせよ思てな、ようけ買うてきましたんや。」と
いろいろなお話をしてくださいました。





・・・・そう、母親はいくつになりましても親なのです。

「子どものためにいろいろと買い物をして 食べさせてあげたいと思う。」
その方のそのお気持ちを思いましたら・・・ふと涙ぐんでしまいました。

「我が子のため」との思いだけでこんな寒い時間帯に 
しかも徒歩でこのスーパーにこられていたのです。






・・・私の祖母は晩年、多くのことを忘れ去り
そのため他の人との会話もちぐはぐなものとなっていました。

私の顔をじっと見て「どなたさんですか」と問うのです。
それで「○○よ」と私の名を言いますと

不思議ですね。その瞬間だけは記憶が戻りまして
「みゆきは元気?」
「○○さん(私の夫の名前)を大事にしなさい。」とはっきりとした声で言うのです。

「あんたは身体が弱いから気をつけなさい」と言ってくれる祖母の顔を見て
本当に有り難い気持ちでいっぱいになりました。





・・・祖母のその時折の会話を思い出し
今になってひとつ思い当たることがあります。
今にして思えば 祖母の話す内容が少しずつ少しずつ時を遡っていたのでした。


まだ症状の軽かった頃、話の中心は私たち孫のことでした。
自分の孫たちのことを気にかけ
一人一人の名を挙げては大丈夫だろうかと心配してくれていました。

数年後にはその話の中心が 私の父に移りました。

そして更に数年後には
結婚してすぐに亡くなった旦那様のことになっていきました。
私に対し、しきりに「晴水さんの顔を覚えてる?」と訊いてくるのです。
「晴水さん」とは祖母の旦那様のことで 今から60年以上も昔に亡くなっており
当然のことながら私が晴水さんのことを知っているはずもありません。



そして更に数年後 祖母の亡くなる少し前には
「○○さんのことを知っている?」と私に訊いてくるようになりました。

○○さんとは祖母の父のことで、私にとりましては曾祖父となります。
曾祖父は祖母がまだ幼かった頃に亡くなりました。
研究所で潮力発電に取り組んでいたそうですが 脳溢血で急死だったと聞きます。

・・・祖母が、亡くなった自分の父親について話す頃ともなりますと
その話す言葉も最早宮崎のものではなくなっており

おそらくは祖母の出身地である大分中津のもの
もしくは幼い頃を過ごした広島呉のものはなかったかと。

そんなふうに記憶はどんどん時を遡り 
祖母の心は完全に少女時代に戻っていました。






けれどそんな中でも祖母はふと我に返り 突然私の父の方を向いて
「あんたの一生を見届けるまで私は死なない」と言うのです。

当時60歳になったばかりの私の父に もうすぐ90歳になろうかとしていた祖母が
「あんたの一生を見届けるまで・・」というのです。

その言葉を聴きながら父は向こうを向いて目をぬぐい
私も涙ぐみました。


「あんたの一生を見届けるまで」
確かに常識で考えましたら おそらくそれは不可能でしょう。
けれど 私には祖母の心が痛いほどわかりました。

もしもこの祖母の言葉を 私の若い頃・・・
例えばまだ子供を産んだこともましてや育てたこともない頃の私がきいたとしましたら
これほどまでに心に響かなかったかもしれません。

けれど今では 祖母と同じ母親であるからこそ  
私自身、その想いを理解することが出来たのではないかと思います。





誰しも我が子の一生を見届けたいのです。
でなければ安心して逝くことなどできません。

私の祖母のように、晩年になりほとんど全てのことを忘れてしまったとしても
我が子を思う気持ちは心の奥深く刻まれ ふと何かの折に表面にあらわれてくるのです。



例えば祖母の場合には
「あんたの一生を見届けるまで・・」という言葉としてあらわれておりましたけれども

人によりましては 先の対戦の空襲の怖ろしさが記憶に残り
その中で我が子の命を守らなければという思いが深く刻まれていて
例えば現在 お昼のモーターがなりますたびにご自分のお子さまの名を呼びながら
部屋の中から飛び出していく・・・そんな方もいらっしゃることを伺ったことがあります。

また戦後の食料難に直面し、我が子を飢えさせてはいけないとの思いが刻まれ
おそらくは食料を蓄えなければとの思いが強くあったのでしょう、
現在 様々な物を箪笥の中にしまおうとする方もいらっしゃるとのこと。

・・・そういうことを伺いますたびに 母の、子を思うその深さを思います。
確かに表面にあらわれる行為は人により様々であるでしょうけれど
その奥に隠された思いは皆ひとつなのだと思うのです。







年齢を重ね、記憶力が減退してゆくことを
最も危惧していたのは他ならぬ祖母であったはずです。

そう思いましたら あのぶ厚い広辞苑を新しく買い求め、いつも自分の枕元に置き
「全部読むからね」と熱心に読み進めていた姿も今にして思えば納得できるのです。




祖母はお団子が好きでして その話をよくしておりました。
もしかしましたら 祖母の思い出の中ではその味が
優しかった自分の母親の思い出に繋がっていたのかもしれません。

そしてその思い出の中で 懐かしいお母さんがそばにいてくれ
お母さんの「いっぱい食べなさい」との声がきこえていたのかもしれません。






祖母が亡くなって早くも4年です。

お料理を教えてもらったことも 身体の心配をしてくれたことも
そして夜遅くまで2人でいろんなおしゃべりをしていましたことも
全て懐かしい思い出です。




全てを忘れ去ってしまった祖母に会いに行きますときには
私自身、必ず京都のおみやげを持っていっておりました。

和紙で作られたお人形。京紅。巾着袋。
祖母はそのたびに「きれいね」と喜んでくれました。





「どなたさんですか」と祖母に問われても決して淋しい顔など見せず
淡々と笑顔で「○○よ」と答えました。
何を問われても言われても 柔らかく受けとめるように致しました。

祖母の前では笑顔で。
そう心がけていて良かったと今では思います。

でなければ 祖母の前で涙を見せてしまったならば
優しい祖母のことです、
きっと心を傷めてしまうと思ったのです。

ですので祖母の入所しておりました施設を出ましてから
ひとしきり車のなかで泣いておりました。







幼い頃に父を亡くし 大人になったばかりの時に母を亡くし
そして結婚してから2年も経たぬうちに旦那様も逝ってしまって
2人の子どもを抱え、必死になって生きてきた祖母。

生まれ故郷を遠く離れ 1人で生きて
どんなに淋しかったことだろうと思うのです。



おばあちゃん、もう頑張らなくてもいいんだよと、
今まで精一杯走ってきたもんね と優しく包みこみたかった。

お父さんのことは私たちが守っていくから
何も心配しなくていいよと伝えたかったのです。




今、こうして元気に生きている私を
そして祖母の血を受け継ぐみゆきのことを
もしも祖母が見てくれているとしたら

一体どのような思いで見つめていてくれることでしょう。









2003年、祖母の一周忌を前に書き綴った日記を
ここに掲げたいと思います。







もうすぐ1周忌を迎えるに当たり、
心の何処かで もう一度彼女に会えそうな 
そんな気持ちがしてならない自分に気付き、馬鹿だなと思うのだ。

1周忌が巡ってきたとて、もう2度と彼女に会うことはできないのだ。



孫達の中で1番目だたなかった みっともなかった私。

お世辞にも可愛いなどと言えるような そんな器量でもなく、
おまけに右手には傷もこさえてしまって 
暑い時期になってもなかなか半袖を着ようとしなかった孫娘を、
祖母は一体どのような思いでみていてくれたことだろう。


そんな孫をみて同情するわけでもなく 鼓舞するわけでもなく、
普通の人々なら マイナス要因としてしか捉えないようなことを
彼女は 私のためには「幸い」として考えてくれたのである。


私の器量の悪さを見ても 嫌いになるどころか
「周りの人から嫉妬されないから安心だ」と笑ってくれ、

右手の傷を見て「心はきれいになりなさい」と諭してくれ、

おとなしく、自分の気持ちをなかなかストレートに出せない私を
はっきりしない子どもだと言うどころか
「人の気持ちを考えることのできる子や」と言ってくれた。




嫌うどころか 大きく包み込んでくれていた。



マイナス要因すら 「幸い」として考えてくれるような人が
一体どこの世界にいるだろうか。






彼女の1周忌を間近にして、改めて
伝えたかったこと、言えなかったこと、感じたこと。





最早それらのことを 

彼女に伝える術もないことを

今更ながらに思う。






















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Last updated  2015.09.26 05:26:59
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