|
カテゴリ:信仰
20代の頃、書店で平積みになったベストセラー本だった。友人の彼に勧められて読んだ。(何か推薦する本を紹介してほしいと頼んでおいたら『沈黙」を勧められた。確か彼は当時ミッション系の大学を卒業していたはず。その時私はクリスチャンでもなんでもなかった)
結婚してもしばらくの間、子どもが出来ても私の本棚から無くなることはなかったが、何回かの引っ越しでいつの間にか消えていた。 クリスチャン弾圧の話は学校の授業とかで聞いていたが、これほどのことがあってもこんなひどいことに合わせても、しかも神父が棄教するほどの弾圧でも神は全く何もしない、黙っている・・虚しさを感じたことは覚えている。 映画化されたとのことだったが、映像で見たらもっと悲惨なんだろうと思い、あまり見たいとは思っていなかった。 封切り間近になって、予告編を見たりすると、監督がまず良い、キャストも良い、映像もとても良さそうだ、一人の人がコメントで「窪塚洋介、ばか格好いい」と書いてあった。確かに彼は演技が上手いはず。さぞよかったのだろう。オーディションでキチジロー役に受かったという。予告編でもその片鱗をのぞかせていた。 観たい!という気持ちが湧いてきてすぐ娘にメールしたら「病んでたから誘えなかったけど行けるよ」とのことで一緒に行くことに。 3時間近い上映時間でも長さをまったく感じなかった。感動した。信仰を持ってわかったことがいくつもあった。 音楽らしい音楽も流れず、波の音と雨の音がほとんど。エンディングロールも真っ暗な画面に雨の音。にわか雨だろうか。最後は鳥の声が・・雨が止んで行くのだろう。 印象に残った言葉。すでに棄教した神父がこれから棄教すると思われる神父に「日本は歪んだ福音が伝わった」と語る。同意する。 拠り所が神が私たちの罪のためのなだめの供え物として人類に公に示したイエスの十字架にではなく、物を拠り所にしている信仰だったのだ。人、十字架のペンダント、聖画等、何か目に見えるしるしを欲しがる。 神父が何でもいいから欲しがる信徒に十字架を下げている珠を崩して一つづつ渡し、喜ぶ姿を見て、危険だと思う場面があった。 宣教に来た神父たちイエズス会もそうだったのかもしれないが、なぜ自我を捨てられなかったんだろうか。神は沈黙していない。「自我を捨てよ。自我をすてよ。」と何度もささやかれたに違いない。 キチジローが本物の信仰を持っていたように思えた。キリスト者は自分の魂に関心を寄せる。魂として、霊として自分自身に関心をいだいている。それはもちろん神との関係の中にある自分自身である。 キチジローは常に自分は罪深い人間であることを神の前に置いていた。 キリスト者はより良い人間になること。、あるいは異なる人になることでさえない。それは常に神と自分との関係である。 現代である今も私たちは歪んだ福音をつかまされていることはないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|