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実家にまだ住んでいた頃、我が家の恒例行事がありました。
その一つは、沼田市迦葉山に天狗のお面を納めにいく、 というものでした。 そこは曹洞宗とのことですが、我が家は特にそこの信仰は しておらず、何時から始めたのかは不明ですが、 ちょっとした家族のハイキングというものでした。 年によっては、家族だけで、ある年は親戚とで、と まちまちでしたが、農家ゆえかお米は充分にありますので お弁当を持って行くことが多かったですね。 ある年、親戚一同で行くことになり、 我が家は運転手役(単に私が運転したかっただけ)を、 ワゴン車を持っている家は車を提供していただき、 叔母ちゃんたちはお弁当やお茶を用意していく、 という感じでした。 だから、コンビニに寄ってお茶を仕入れていく という感覚はなかったですね。 お昼時になれば、お弁当を広げられるところを見つけ ワイワイ楽しく食べる。 「あれ、私、漬物持ってくるのを忘れた。」と言えば 「私が持ってきたよ。」と言い、 「この野菜の煮しめ楽しみにしてきたんだよ。 持ってくると思ったから私はゆで卵を作ってきた。」 「お握り残ってるよ。フルバツカちゃん、大食漢だから 残り全部食べてー。」 「そんなに食べれないよー。」と、私。 「お茶、おかわりする人ー?」と言えば、 「はーい」と、湯のみが集まる・・・・etc。 そして、無料のなめこ汁を飲ませてくれる土産屋さんに 寄って帰途に着いたものでした。 なぜこの思い出が浮かんだのかというと、 カメハハさんのブログ 生活起業家ねっと の5/30の “タイムデザインはネットワークデザイン。 そしてプロダクトへ”をを読んだときです。 カメハハさんが言われている内容とずれると思いますが、 例えば、ワゴン車所有の叔父さんが運転せず、 何故父と私が運転したかといえば、単に私が運転したい というのもありましたが、 おじさんの運転が下手で、さらにそこは山道が続くので、 みんなが酔っては大変、という理由もありました。 叔母さんたちは、乗せてってもらうのだから、 と、自分たちの出来るお弁当を作るということを したのでした。 そこには「作っていかなきゃ」、とか 「ただ乗っているだけだから、お弁当ぐらい作れ!」 といった考えはなく、みんなの喜ぶ顔を楽しみにして だと思います。 自分の出来ることというのは、自分らしさであり 義務・権利といった言葉に縛られるのでなく、 一つの目的のために、有機的な人のつながり ネットワークが出来たら、素晴らしいですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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