映画感想『リョーマ!新生劇場版テニスの王子様』-その5
映画感想、ラスト記事(予定)!映画感想『リョーマ!新生劇場版テニスの王子様』-その5前記事までで、個々に書きたいことはだいたい書き尽くしたかな…という状態なのですが、補足で書きたいことと、本映画に対する個人的な感想の総括を。(先に断っておきますとこの記事上の、どこで誰が、どういう順番でこの映画作品を構築していったか、というのは本当に私たちの中での、ただの「想像」「いち鑑賞者の解釈」ですので。この作品を観て、こういう風に捉えている人も居るんだな、と思っていただければ。)*以下、現在公開中の映画作品の、ガッツリネタバレあり感想です。未鑑賞の方は、お気をつけください。*●黒猫こちらも「ゲストキャラクター」で良いのか分かりませんが、本映画随所に登場する、「黒猫」。監督様のお話で、「夢へ案内するキャラクター」との見解があったようですが、アリスで言うと兎のような立ち位置ということでしょうか。映画序盤、桜乃ちゃんをリョーマ君に引き合わせたのもこの黒猫ですし、クライマックス、全米オープン会場で、リョーマ君にボールを渡して、戦うように促したのもこの黒猫でした。観ていると、この黒猫が、鑑賞者が気になるレベルで登場してくるシーンは、基本的に、リョーマ君と桜乃ちゃんのシーンです。最初の、エメラルドさんの倉庫のシーンや、ラストシーン、現在に戻ってきた二人が別れるシーン…等。心配そうに観てる…って雰囲気かな?と。一番大々的に登場するのが、やはりリョーマくんと桜乃ちゃんの教会のシーン。教会→星の光の世界へ、この黒猫が二人を導いたのかな?というニュアンスになっていました。この星の光の中でのリョーマ君&桜乃ちゃんのデュエットシーンですが、明らかに不自然に、黒猫の「眼」が随所で「くわっっ」と観客を観てくる、謎演出がなされています。桜乃ちゃんが「私大丈夫だよ」って、とにかくプリンセスな表情と仕草で応えるシーンと、「どこに居ても君と回る世界~」の、リョーマ君と桜乃ちゃんが浮遊するシーン…かな?後ろで、ものすごく不自然に、黒猫が大きな眼を見開いて、観客を睨んで来ます。まぁ…基本、黒猫は許斐先生で、このシーンでの目線は、「観客への威嚇」なんだろうな、と私は受け取っています。今回、こうやってこの二人を描くことについて、確固たる決意・覚悟を持ってやっていることとはいえ…不安…でしょう、心配…でしょう、そりゃ…これまでの、経緯のあれこれからして、そりゃ…キャラクター守らなきゃ、って思うでしょうよ…と。この解釈で合っているのかは分かりませんが、「何かの目線」の示唆ではあると思っています。感じ取る人だけが感じ取れば良い、興味深い演出だな、と思っています。●オープニング・♪Dear Prince~テニスの王子様達へ~ クライマックス・♪世界を敵に回しても の対比本映画作品ですが、随所で、「テニスの王子様」という作品が、第一線の作品ではないという現状の立ち位置について示唆されていると思っています。表題曲♪世界を敵に回しても の歌詞中にある、この言い回し。「時の異邦人(エトランゼ)だとしても」もちろん、リョーマくんと桜乃ちゃんが、過去にタイプスリップして来ている「時の異邦人」という概念とひっかけてありますが、歌詞の意味合いとしては、作品の立ち位置としての意味合いが強いのだろうな、と受け取っています。この概念、OPのシーンと、クライマックスシーンとの対比で一番表現されていると思っています。オープニング・♪Dear Prince~テニスの王子様達へ~ ですが、テニプリ旧作の最終回のシーン。観客が皆がノリノリで躍りもてはやす、「熱狂」ですね。作品としての「人気絶頂期」のイメージなんだと思います。対比で、クライマックス・♪世界を敵に回しても のシーン。全米オープン会場で、観客は皆ブーイングをしながら帰ってしまって、家族や、今回の映画でかかわった人たちしか観ていない中で、リョーマくんの、一番叶えたかった夢のような試合が始まります。この2つのシーンの対比は、本当にオモシロくって…シーンとしての概念も対比になっているのですが、もう一つ、「リョーマくん」というキャラクターの描かれ方ですね。この2つのシーンで対比になってます。オープニングの方は、「アイドルのリョーマくん」です。表情・動きがとにかくアイドルです。集団アイドルの中で、一番小さくて、一番大きな眼をして、真ん中でバシッとキメる…作品の人気絶頂期に求められた「アイドル(センター)像」なのだと思います。このオープニングの「アイドル・リョーマくん」像とのギャップを魅せるのが、映画本編でした。表情・演技動作の質が違います。正味80分くらい…だと思いますが、ひたっすらこの子の、特に「プライベートの部分」…ですね。生まれ育った環境と、見て来たものと、大事にしていきたいものとを、ひたっすら魅せて来てからの、クライマックスシーンなので。オープニングでも、青学メンバーはじめ、みんな踊って応援してくれてたんですけど、クライマックスはもう…感受性が違うというか、「テニプリ」という作品の、これまで積み上げて来たものすべてが、背中を押してくれる力強さを、リョーマくんにつられて、観客も強烈に実体感します(させられます)。とにかく、この2シーンの対比は、観れば観るほど面白いところです。◆総括劇場公開から、1カ月以上が経過しましたが…はい。毎週末、車で1時間半かかる劇場まで足を運び…結局、現時点で14回鑑賞してきました。過去、「銀魂 完結篇」の自分内最多16回鑑賞という記録がありましたので、そこまではいっていないのですが…でもな…銀魂はセカンドランまで合わせての回数だったから…ペース的には同ペースかも…。年季の入ったテニプリファンでもないため、作品を応援したくて行っているわけでもなく、特典の40種ポストカード狙いなわけでもなく(パッと名前が出てくる子の方が少ないし)、ただただ単純に、この映画を鑑賞したかった…。完全に中毒症状です。この映画作品は、需要や波に当て込んだ作品ではありません。「こういうものをファンが待ってるから」「こういう波が来てるから、それに乗ろう」…という意識の企画とは、かけ離れたところから生まれて来ている作品です。ただただ、許斐先生が最高だと思うものを、疑いようのない力のあるスタッフ様たちの力を存分に借りながら・任せながら、これまで培ってきたメディア・エンタメノウハウのありったけを駆使して、最高にこだわり抜いて、最高だと思う「形」にしてある作品…だと思っています。これが何のつくり方か?というと、大袈裟ではなく、「ラピュタ」「トトロ」の作り方だな、と思います。「お前に誰もそれは期待してない」と言われながらも、「最高だと思うもの」を、形にしてある。形にしないと、口で言ったところで何も伝わらないじゃないですか。「トトロ」「まっくろくろすけ」「ねこバス」なんて概念で説明されたところで、受け手には、何が面白いのかなんて全く分からないですよ。本テニプリ映画にしても、少年漫画の主人公としての「リョーマくん」像…お父さんに憧れて憧れてキラッキラしてるところや、桜乃ちゃんと2人でいる時の、どれほど「王子様」かという部分…どれほど、許斐先生の中に構想があろうが、どれほど「『このリョーマくん』が魅力的なんだ」と口で説明しようが、やっぱり描写して、作品にして伝えないと、分かってもらえないんです。これが、「形にする」ってことなんだ、と思います。「形」にして、「作品」として表に出したものしか、何かを伝え、他の方を説得し、押し切ることはできません。ただ、製作サイドとして、「形にする」までの紆余曲折…というのは、当然あるのだと思いますし、特に、今回の「新生テニスの王子様」については…。映画立ち上げ時には、「これほどの攻撃性をもった『作品としての概念戦』」を展開するつもりは、なかったんじゃないかな、と思うんです。鑑賞すれば分かりますが、今回の映画、とにかく「異常」です。「異常なハイテンション」が、ずっとずっと空気感を支配しています。鑑賞者の記憶を飛ばしたり、「麻薬」と称されるほどの爆発的な感情が、渦巻いてる。「テニスの王子様」の原作を読んでいて、本当に感じたのが、許斐剛先生のお人柄や、信念という部分だと思うのですが、絶っっっ対に、「負の感情」を使わないんです。キャラクターにしても、総勢数十人、数百人というキャラクター達が居るのに、一切、「負の感情」から生まれたキャラクターが登場して来ません。普通、使いたくなると思うんですよ。家庭環境があまり上手くいっていなかったりだとか、不幸な生い立ちを背負っていたりだとか…それが、一切ない。許斐先生自身が、「ハッピーメディアクリエイター」を名乗られていることからも、クリエイティブの源泉が「ハッピー」であり、形作るもの自体も絶対に「ハッピー」であるのだ、という確固たる信念を持ってらっしゃるんだな、というのをひしひしと感じます。今回の映画作品も、最初は「ハッピー」だけで作ろうとしたんじゃないかな、と思うんです。以下↓、あくまで私と妹の中での、「こういう流れ・考え方なんだと思う」という、ただ想像です。原作・旧作の全国大会に向けて、20巻後半から30巻台…ですね。(初期構想では、主人公に設定していたという)金太郎くんを大々的に出して、ファンの要望に応えて、氷帝学園をもう一度大々的に描写して、35巻…でしょうか。あそこで一度、明らかに「リョーマ君軸の少年漫画」を再開幕させようとしてると思うんです。金太郎くんと、桜乃ちゃんと、リョーマくんで、三角関係をベースに、金太郎くんとリョーマくんの対峙…ライバル関係を、分かりやすく定義して。この時にやろうとしたのは、今回の映画の立ち上げと、同じ試みだったと思うんですよ。「少年漫画の作りに戻そう」「リョーマくんが運命的に感じ取ったもの、リョーマくんにとっての重要な要素のバランスで描こう」という。これが、おそらく、ファンの反発が凄すぎて…だと思います。許斐先生が描きたい形に「出来なかった」。多分。だから、旧作は42巻・全国大会優勝までで、青学だけはしっかり主役主体として描き切って、一旦締めることにした(なった)んだろうな、と感じました。(35巻には、許斐先生の腰痛による休載についての記載もあったため、体調面のこともあったのかもしれませんが…。)準決勝の四天宝寺戦で、リョーマ君VS金太郎くんの試合が実現せず、(その前に決着がついたため)1球のみの対決だけが描写されましたが、『ここではもう描けない』から、『保留』したのだと思います。また、41巻・決勝戦に向かうリョーマくんに、桜乃ちゃんが話かけますが、リョーマくんが、「悪いけど 後にしてくんない」と言うシーン。今回、原作をじっくり読み直している時に、このシーンを読んで若干涙ぐみました。このシーンは、本当にリョーマ君の言葉のままで、「試合の後に、何らかのエピソードがある(今は描写はしないけど)」という含みも持たせつつ、『走らせてきたこの連載の中で、(リョーマくんと桜乃ちゃんを)描いてあげられない』『また後で、何らかの形で、絶対に描く』という作品としての示唆だと思ったんです。今回、原作を読み直してひしひしと感じましたが、リョーマくんと桜乃ちゃんに関しては、10巻台…アニメが始まったあたりから、原作の中で、本当に描けてません。随所で、「出したい」という意図をすごく感じるシーンが出てくるのですが、リョーマくんが、桜乃ちゃんの方を見て、普通に会話できるシーンがほぼありません。たぶん…皆無じゃないでしょうか。それくらい、旧作の中では、「普通に」描写できなかった。旧作完結が2008年で、1年後…2009年、『新テニスの王子様』が続編として連載開始しています。「新テニスの王子様」も、ざっと読みました。作りとしては、本当に…「分かる」「上手い」「流石」。まだまだ人気拡大ができる「テニプリ」という作品のコンテンツ提供…高校生たちという新キャラクターの拡充を行いながら、「U-17世界大会」に向けた、隔離された合宿所でのバトルロワイヤル的な出だし…話筋の定め・縛りを極力抑えた中で、数多のアイドル人気を誇るキャラクター達を、需要に沿った形で活躍させることが出来るようになっています。求められるものに対して完璧な、「流石」としか言いようのない作りだな、と思います。ただ、ざっと読んでの印象は…「『物語』ではないな」というのが、正直なところです。特に、『リョーマくんの物語』ではないな、です。本当は、新~になってから、人気キャラたちも個々に活躍させつつ、もっともっと、リョーマくんと金太郎くんの軸を、少年漫画的に描いていきたかったんじゃないかな、と思うんです。なかなかそこが、ファン層の需要と折り合わない…「テニスの王子様」という作品・商品パッケージを背負って、このジレンマの中で、『リョーマくん』が描けない…というか、もう動けない…というか。新~のコミック13巻。リョーマくんが日本の合宿所を(失格)という形で離れて、お兄さん(リョーガさん)の導きで、アメリカチームに入る展開を読んだとき、許斐先生の中で、何らかの決意があっての展開なのかな…と感じました。衝動的なものだったのかもしれませんが、感じたのはとにかくコレ↓です。「リョーマくんを、『アイドル集団』から離してあげたい」このタイミングで、桜乃ちゃんが原作本編に鮮やかに登場して、漠然とですけど、力強く励ましてくれるデート回が描かれるのですが、…すごく分かるんですよ。これが、2014年の段階。今回の映画作品が、お話を見ていると5年以上かけて製作している映画作品のようですので、2016年くらいから?動き出しているのかな?許斐先生が、インタビューやメッセージ等でしきりに「最初は、タイトルから『テニスの王子様』を外したかった」とおっしゃってるのを見て、最初の感情は、本当に…「リョーマくんを、『アイドル集団』から離してあげたい」だったのではないかな…と思うんです。「テニスの王子様」「テニプリ」を背負わなくて良い場所で、リョーマくんと、そして桜乃ちゃん…この2人を、生き生きと、思いっきりしゃべらせてあげたい、動かしてあげたい。最初、この映画のビジュアルと概要が公開されたとき、「リョーマくんと桜乃ちゃんで、アドベンチャー!」なんだな、と思いました。この2人のキャラクター、(あとは金太郎くんもですが、)そもそもが「子ども向け」に作ってあるキャラクターです。どう見ても。「王子様」と「お姫様」という、考え方自体が完全に「童話視点」なんです。だからこそ、集団アイドルが求められる「テニスの王子様」の中ではなく、別の、子供向けのパッケージ感の中で、森の中で出逢った王子様とお姫様…それくらい安直で絶対的な存在として、この2人を、転生させてあげたい…というか。だから最初は、子供向けのワクワク大冒険!という筋立ての中で、リョーマくんが桜乃ちゃんを一生懸命守って、桜乃ちゃんはとにかく健気で可愛くて、リョーマくんをずっと見てて…それが描ければ、やりたかったことは出来てたんだと思うんです。それこそ、今回の映画作品を、許斐先生だけの感性…「ハッピー」だけで形作ってたら、↑こういう作品になるのが、至極妥当な形だったと思います。…ただ、やっぱり、この2人を活き活きと会話させてあげようとするほど、向き合えば向き合うほど、それだけじゃ…終わらなかったんだろうな、というか。やっぱり、何がどうあったって、この子たちは、存在がもう「毒」なんです。作品の大成功と、独自路線の発展の陰で、理不尽に抑圧を余儀なくされ、犠牲になり続けて、20年…。この2人を巡る、関係者の方たちの気苦労や心痛、ファン・読者・ちょっとだけ知ってる層も含め、何万・何十万・何百万という人々各々に渦巻く感情…何より、「最高だ」と思って仕掛けたキャラクター、キャラクターの関係性を、(一部の読者だと思いますが)延々と攻撃・拒絶され続け、読者が誰も傷つかないようにと気を使い続けて、描くことすらままならなかった許斐先生自身の中の激情と、この2人のキャラクターに対して積み重ねた、「申し訳ない」という感情…何がどうあったって、絶対に「あります」。監督様・脚本家様が本映画作品の構想を練る段階で、この「毒」であり、そこに渦巻く「感情」それ自体が、特殊だし、本映画作品の、他にはない面白さなんだ、と位置付けたんじゃないかな、と思うんです。提案として、ガンガン作品の歴史的背景・概念を、サブキャラクター設定や話筋自体に組み込んできますし、そうした中で、いざ、リョーマくんと桜乃ちゃんを2人っきりにして、向き合って、落ち着いて、自由に会話させてあげようとしたら、12歳らしい会話そっちのけで、「足手まといになってごめんね」「怖い目に遭わせてごめん、巻き込んでごめん」って言い合ってる…。いったん、集団アイドルパッケージから引き離そうとしたからこそできた、「(桜乃ちゃんに)本当に言いたいことは、何だ?」という問いかけに対する、リョーマくん(というか、=許斐先生)の返答(意志)が、「謝りたい」と「『絶対に守るよ』って誓いたい」だったんだろうな、と思います。この意志が、教会のシーンに結実した…というか、「これしかない」という形で定まった時に、これはもう…『そういう作品』だ、と。「絶対に嫌だ」「ここは描いて欲しくない」って言うファンが一定数は確実に居ること分かってて、やることなんで。どうしても「ハッピー」だけではいられない…作品としての「負の感情」や「傷」を、「そういうもの」だと認める…というか。今まで積み上げて来た作品の歴史や、周囲の目線は、何がどうあったって、リョーマくんにとっての「壁」だし、ここに突っ込む行為が何なのか、その源泉にある感情は何なのか、と言ったら、『世界を敵に回しても 譲れないものがある』だったんだろうな、と思うんです。許斐先生おひとりで形作る作品だったら、ファンに気を使いまくるお人柄、これまでの作品展開を見るだに、絶対にやりたくなかったし、出来なかったことだと思います。出来なかったからこそ、20年間もこの状況を続け、抑圧された感情が熟成に熟成を重ね、、今回、こんなド肝を抜かれるような「ゲキブツ」映画が生み出されてしまったわけで。ただまぁ…改めて振り返ると、「世界を敵に回しても」描きたいものが、何かって…『王子様とお姫様』ですからね…!!この2人(←ただただ微笑ましい、王道中の王道)を描くのに、いったい何をどうしたら、ここまでの覚悟が必要な状況に陥るのか…っていう…;;まぁ…オモシロいんですよ。本当に、「他にない」。ここまで5記事に渡って感想を書いて来て、私があまりにも「リョーマくんと桜乃ちゃん」に寄った観方をしてしまっている自覚はあります。これまでの「テニスの王子様」の作品背景に目を向けなければ、「父親のテニス」に一直線に向かう少年の、感情・動きを主軸に展開させた映画作品という認識で一切問題ない作りになっていますし(脚本家様の筋立てが本当に上手)、鑑賞後に「満足感」が得られていたのであれば、それはもう、映画内でリョーマ君が思いっきり楽しく動けた…「満足」していたし、そこがちゃんと観客に伝わっていたんだな、ということだと思います。それだけで、製作主体のやりたかったことも全部出来ているし、傑作映画だ!と言い切れると思います。ただ…やはり、私の視点では、です。これまでの作品背景への視点が大きいため、この作品に渦巻く「異様なハイテンション」の源泉は、間違いなく「リョーマくんと桜乃ちゃん」を描くこと それ自体にある、という観方になりますし、本映画作品の核心は?と言われたら、まず『教会のシーン』だと思っています。教会のシーン 及びそこでリョーマくんと桜乃ちゃんが歌う♪Peace of mind と、敵キャラとして設定されたエメラルドさんは、「少年向け」の作品を描こうとして、素直に出てくるものではありませんし、「新規ファン」開拓向けとして妥当な要素だとも感じません。これらは、20年を背負った、作品の在り方の概念戦の結晶です。「世界を敵に回しても」なんてフレーズは、この概念戦からしか出て来ません。リョーマ君が、枷を外してあげたら、本当によく動くんですよ。この映画内で。絶対にじっとしてない。桜乃ちゃんにも、まっすく向き合って、どこまでも踏み込んだことを自力で伝えて、その上で、憧れに向かって、観客置いてけぼりにして、どんどんどんどん進んでいくんです。こんなにパワーのある子だったんだ…!って、許斐先生自身も、製作の中で何回も何回も、この子の主人公としての底力に惚れ直したんだと思いますし、そうした中で、リョーマくんが「『テニスの王子様』を呼んだ」というか。先輩たちや、ライバルたち…作品自体を、呼んだ。逃がしてあげたかったものを、自ら呼び寄せて、それを声援に変えて、自分の力で、集約していこうとし始めたんじゃないかな、と思います。だんだん、その過程でテンションがおかしくなっていったというか…「リョーマくん、最高だよ!」「大丈夫だ、桜乃ちゃんも、作品自体も、そしてファンも、何もかも全部、リョーマくんの力で『ハッピー』にできる!!」「やっぱり君が、『テニスの王子様』だよ!!!」「『テニプリ』って最高だよ!!!!」映画のクライマックスは、もう↑このテンションでお祭り騒ぎしてるんだと思うんです。作品として、時流の波が来ているわけでもなく、本当に、ただただ作品内で、壮絶な概念戦を繰り広げて、自家発電で勝手に盛り上がって、暴発ええじゃないかしてる…というか。それを、映画作品として、世に出す、とか。面白過ぎるんだ…。原作・新テニスの王子様、20巻台の前半。おそらく、本映画作品の筋立てがおおよそ整う段階…2017~2018年にかけての原作展開の中で、リョーマくんが、日本チームに戻って来れてます。この映画作品を作ることができているから、リョーマくんが「大丈夫」になったんだな、と思って読みました。2021年10月10日…でしょうか?テニスの王子様・アニメの20周年というタイミングで、「テニスの王子様」TVアニメの新シリーズ開始と、ゲームの製作・発売が発表されました。テレビ東京とブシロード…どちらも、今回の映画作品の製作委員会に名前が並んでいます。映画作品の内容の評価が、切り開いた道だと思って観ています。なかなか言いたいことがまとまりませんが、流石にそろそろこの辺で、5記事に渡った感想記事を書き終えたいと思います。傑作です!!!!エンタメは毒。テニプリはヤク。20年間の抑圧で醸成された激情は、凶器。全部ひっくるめて、20年間の作品展開で培ったノウハウのすべてで「ハッピー」にコーティングした、スーパーゲキブツ映画です。最高にエゴイスティックな作品だと思います。だから、最高なんです。やっていること、詰め込んであるものの「質」は、どれだけ言葉を尽くしても表現しきれない程に「高尚」です。この映画を、数多の「テニスの王子様」コンテンツの中心に据え置くことで、原作・アニメ・ミュージカル・キャラソン・その他諸々のメディアミックス…テニプリワールドのどこへでも興味を持って行ける「ハブ」として機能します。…凄い。何が凄いって、ハブ機能を持った作品の入り口に「ゲキブツ」を仕掛ける大胆さが、凄い。傑作です!!!!!未鑑賞の方も、是非…!劇場公開中に間に合わなくても、今後、鑑賞できる機会はたくさん出来てくると思います。なにがなんでも、是非…!!!これは、できるだけ多くの方に鑑賞してもらうことに、意義がある作品です。先ほど、ポストカード目当てではない と書きましたが、やっぱり、リョーマくんが出てくれた時はテンション上がりました♪テニプリって…いいな!!!(沼の入り口で叫ぶ)by姉