京都に行ってきました-その②豊国廟&新日吉神宮、智積院
その①記事の続きです。京都に行ってきました。-その②豊国廟&新日吉神宮、智積院東山地区の、秀吉所縁の地めぐりです。◆豊国廟(ほうこくびょう)東山・三十三間堂の近く、もう少し東の山を登ったところにある豊臣秀吉のお墓です。おね様のお墓のある高台寺や、もう少し街中にある、秀吉を祀る豊国神社は訪れたことがありましたが、秀吉自身のお墓が何処にあるのか、よく分かっていませんでした。偶然、妹が旅番組でこの廟の映像を観て「これは行かねば!」となり、訪れることが出来るタイミングを狙っていました。豊国廟は「とよくにびょう」と読むのかと思っていましたが、「ほうこくびょう」だそうです。本廟は豊国神社が管轄しているようで、拝観料が100円かかるのですが、基本的にはあまり大々的に観光客向けに宣伝はしていません。本当に神域なんで、下手に人を入れたくない…ちゃんと秀吉のお墓詣りに来た人だけに開けてるんだな、と感じました。麓にある京都女子大学の敷地?と一瞬思うよう参道を進むと、鳥居が見えます。ここまで、看板や案内はほとんどありませんでした。階段を登ったところで、ようやく「豊国廟」の文字が。大きな社殿があったのだろうと思われる、かなり広い広場が眼前に拡がります。拝殿の先は、本当に「神域なんだな」と感じます。進んだ先、峰を登る長ーーい石段があります。案内の方に教えていただきましたが、階段はここから500段くらいあるそうです。秀吉の生涯(享年62歳)になぞらえて、62段ずつで一区切りするような作りになっているとのことでした。ちなみに、上の写真で見えるのは、全体の2/3のみ。下から見えていた頂上まで登り切ると、ここにも社殿があったのかな?と思われる平らな空間&中門があります。中門をくぐると一直線の石段(残り1/3)がそびえています。圧巻です。ここは!96年のNHK大河ドラマ秀吉のオープニングで、日吉少年が、階段でまったり寝転んだりもしながらも、最後、光を目指して一気に駆け上る印象的な絵面があるのですが、まさしく、この場所です!!今回、豊国廟を訪れた最大の目的は、この絵面を実物で拝みたかったから!です。一直線に伸びたこの石段が、日本史上最も出世した男(百姓→天下人へ)の人生・物語の印象と非常に合っていまして、そっか…これは本当に秀吉のお墓に繋がる一本道だったのか…!と。石段を登り切った先に、五輪塔の廟が現れます。かなり大きな石碑でした。視線を左手に向けると、伐採された木の隙間から京都一望…更に、清水寺の全景を見て取ることが出来ます。清水寺の先には、おね様の眠る高台寺があるはずで、高台寺の霊屋は、この豊国廟の方を眺める形で建設されているとのことです。訪れた後に、豊国廟の経緯について調べましたが、1598年秀吉亡き後、遺言に従って現在の豊国廟のある「阿弥陀ヶ峰」に葬り、おそらく麓の広場だと思いますが、荘厳な「豊国社」が建設されていたそうです。ただ、1615年に豊臣家が滅亡すると、徳川家康の意向で神社は廃社に。その際、社殿は北政所の強い意向で残されることになりましたが、その後一切の修復を行わず朽ち果てた…とのこと。現在の豊国神社や、今回訪れた豊国廟に繋がる石段&廟自体は、明治時代に入り再建されたものだそうです。経緯を見て凄く納得しましたが、どう見てもこの場所、神社仏閣のひしめき合う東山地区の中においても一等地だと思うんですよ。山科地区・琵琶湖に抜ける超重要街道の真横ですので、当然のことながら「阿弥陀ヶ峰」自体が軍事戦略上の超要所だったようですし、秀吉自身がここに眠ることを望んだのも、東国(家康)を牽制してのものだったんだろうな、とひしひしと感じました。こういった権威の象徴のようなお城や神社仏閣は、滅亡後に上からマウントを取る形で別のお城・神社仏閣が建設されることが多々あるのですが、豊国社及び豊国廟の一番重要だと思われる社殿・廟跡地にその形跡がなく、江戸時代を通じて手つかずで放置されたのは、家康が北政所の意向を重視しており、家康亡き後の徳川家も、家康の意向と違えるようなアクションを起こすことが出来なかったからかな?と想像しました。※北政所(~1624年)は家康(~1616年)より後まで生きてます。大河ドラマ秀吉を小学生の頃に鑑賞して、戦国ロマンに思いっきり夢見た時から25年以上経って、オープニングの印象的な絵面の実際の場所を訪れることが出来ました。概念が、めちゃくちゃ見事にロマンそのままの形で映像化されていたことを実感出来て、感無量でした!◆新日吉神宮(いまひえじんぐう)豊国廟の参道を下り、少しだけ参道からそれた場所に、謎の神社がありました。名前的に明らかに秀吉関係だと思い、覗いてみると…「いまひえじんぐう」!?いや、立地的にどう考えても秀吉関連の「しんひよしじんぐう」だよね?ナニコレ?案内板を見ると、後白河上皇により建立~云々と書いてあり、ますます…???本殿まで行くと…いや、狛犬の居るべきところに、なんか阿吽の狛猿が居るんだけど…。「大黒様」と「真猿(まさる・勝る・魔去る)様」とかが並んでて、不自然なほどに猿推しなんだけど…。ナニコレ?本殿の裏手に、2つ社が並んでおり、左手は「樹下社(このもとのやしろ)」とのこと。大きなご神木の下に配されているから、「『このもと』だよ~」って体ですが、明らかに秀吉の若き日の名・「木下(きのした)藤吉郎」のことですよね?この新日吉神宮ですが、長いこと廃絶状態だったものを、豊国社廃絶後の1640年に豊国社参道上に再建したものだそうです。近くの妙法院で、豊国社の御神体を長く隠し祀っており、江戸時代中頃からは、御神体を上述の樹下社等で祀っていたそうで。「新日吉神宮」は、江戸時代における豊国社の仮住まい的な社というか。はっきりと「豊国」「秀吉」って言わない状態で、洒落のようなモチーフ・語呂遊びをしながら明らかに秀吉を祀ってた神社なんだな、と理解しました。豊国社・秀吉信仰の歴史的背景と、江戸時代における人々の秀吉への愛着を非常に感じられる場所でした。いやぁ…興味深くて、とても面白かったです!◆智積院(ちしゃくいん)豊国廟麓の智積院も訪れました。紀州の根来寺に端を発するとのことで、秀吉の紀州征伐で社寺を焼き払われた後、僧侶たちは高野山に潜伏しており、関ヶ原の合戦後、豊国社の一部土地を家康より賜り再興した寺とのこと。こちらも、戦国のマウント合戦の経緯が良く見て取れるお寺ですね。非常に荘厳な、大きなお寺でした。名勝庭園があるとのことで、拝観しました。千利休好みの、中国の廬山を模した庭園とのことで…うん…いや、もちろんキレイな庭だな、とは思いますし、多分、一つ一つの木や石について、語れる意味が込められてるんだと思うのですが、正直なところ、よく分からない…。いやでも、すごくキレイな寺院でした。東山地区でも、マニアックな名所巡りになりましたが、最高でした!秀吉ファンとしては、本当に訪れることが出来て良かったと思います。by姉