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テーマ:自分を知る(166)
カテゴリ:自分を知る
先日、夫と話をしていた時、
私の母と祖母の生い立ちの話になった。 母の母、私の祖母Hさんは小さい頃に母親を亡くした。 その後、宮城県の小さなお寺から 山形県の大きなお寺に引っ越して 父親が再婚し、継母が出来た。 私の祖母のHさんには姉がいたのだが、 二人姉妹のために お寺の跡取りを姉が迎える予定だった。 所が意地悪な継母を嫌って 祖母の姉は家を出て 他所のお寺に嫁に行ってしまった。 それで継母が亡くなるまで 私の祖母Hさんは意地悪に耐える生活だった。 祖母Hさんは結婚してお婿さんを迎え、 子供が数人生まれたのだが、 戦時中の栄養不足や病気の蔓延、 継母の育児下手(と母が言っていた)のため 継母と祖母の子供が4~5人亡くなっている。 それで生き残った祖母の子供は4人で その長子が母だった。 母と年の近い叔父や叔母も一緒に育ったので 私の母は長女なれども、 真ん中っ子的な性質も持っていると 今なら見えて来るものがある。 と、ここまでの諸事情は 夫には以前何度か話しているので省いた。 ―― ここからが話しの内容 ―― 私の母は 祖母Hさんの継母にとって 生き永らえた一人目の孫となり、 とても可愛がられて大事に育てられたそうだ。 母は毎日曾祖母の布団で一緒に寝ていた。 私の祖母Hさんは母が学校から帰って来ると 毎日宿題予習復習を付き合って教えてくれた。 母は田舎の小学校で成績はいつも一番で、 優等生だった。 だから山形市の女学校に行くと、 町中で育った子達から田舎っぺと笑われ、 プライドの高い母はひどく傷つき、 猛勉強して女学校でも優等生になった。 後に生徒会長になって、 教師達も誰も恐くなかったと 母はよく言っていた。 「結婚しておゆうさんに出会うまで 私には恐い人がいなかった。」 と、母はいつも言っていた。 おゆうさんとは私の父方の祖母で 若い時に病気で夫を亡くし、 苦労して産婆の資格を取って 常に怒り、 キリキリと噛み付くように生きていた人である。 小柄で俊敏、頭の回転が早く 悪いことは人のせいにして攻撃する ネガティブ思考の達人であった。 (言い過ぎかww) 誠に母と似ている人であった。 それを母は自覚しないもんだから、 嫁いびりしたおゆうさんを死ぬまで呪っていた。 あ、つい余談に・・・。 私の母方の祖母Hさんは 実に寡黙で働き者だった。 黙々と仕事をし、 敷地内の畑を耕して 私達に振る舞ってくれた。 家族の喜ぶ姿を見て ひっそり笑っている人だった。 私は多分1歳頃まで、 日中は家の近くの とても優しいお宅に預けられていたのだが、 それ以降は母の実家に預けられた。 おゆうさんが 「おれは苦労して一人で子供を育てた。 孫の世話なんかする道理はない。」 とのたもうたので、 母は子供を育てるためには 外部の人にお願いするしかなかったのだ。 母にとって思い通りにならない事は 許せない事だった。 だから益々おゆうさんを恨んだ。 「私は子供を育てるために家にいて おゆうさんと一緒に毎日過ごすなんて 絶対嫌だったから仕事に出た。」 と母は言っていた。 それは私にも良かった事だと思う。 母は子供が嫌いだったし、 自分が一番優秀で正しいと思っている 完璧主義者だったので、 あの人に基本を刷り込まれた日には 私は今頃どうなっていたかなんて考えたくもない。 かくて祖母Hさんの背中で婦人会などに参加し、 集まりには必ず同伴し、 毎日沢山の人が訪れるお寺でのお茶出しにも参加し、 どこにでも一人で歩いて行った私は その地域では知らない人がいない子供で、 人付き合いが平気な子供になった。 祖母Hさんは忙しい人だったので 私は小さい頃から一人行動を身に着けた。 Hさんは私にどうしろこうしろと命令はしなかった。 私はいつも自由で自分の規範に沿って生きていた。 広い家とお御堂、 あちこちのトイレや渡り廊下、 長くて広い参道や墓地の掃除、 朝晩の供え物と片付け、 家族の食事の支度と片付け、 お参りや葬式や法事の打ち合わせに来る人への接待、 寺の手伝いをする人との打ち合わせ、 住職の支度の世話や衣類の管理、 食べ物の管理。 秋には巨木の銀杏の木から 参道に落ちた大量の銀杏の実を、 ゴム手袋を掛けてバケツに拾い集め、 臭い実から種を取り出して干し、 それを親族に配ったりもした。 昔は法事やお葬式の時に 婦人会の人達がお寺で食事を作ったりもした。 お寺の中だけでも毎日すごく忙しいので Hさんは常に働き廻っていた。 夫の住職は法事や葬式で出掛けて行くと 酒を飲み過ぎては酩酊して路上で寝るため、 Hさんはリヤカーを引いて回収に行ったそうだ。 私の記憶の祖父は 酔って押し入れにオシッコをしたり 人の良い顔で縁側にいたりした遠いものだ。 祖父は私が小学4年で亡くなったので もっと記憶が残っていても良いはずなのに 祖父の記憶は数えるほどしかない。 そんな気忙しい毎日なのに Hさんが怒って声を荒げた所は見た事がない。 イライラしている所も見た事がない。 常に淡々と仕事をこなしていて、 私には何も要求はしなかった。 放って置いてくれた。 小学校に入学する直前まで 私は実に気ままで、 しかしいつも孤独を感じながら 沢山の大人の中で育った。 大人の行動を観察しながら 大人の隙間でそれなりに自由に生きていた。 Hさんの唯一の趣味は俳句で ちょっとした時間を見つけては 俳句を作っていた。 それも一人でこっそり作っていたので Hさんが寝たきりになるまで私は知らなかった。 祖母の思いは俳句だけに込められいた。 人には何も言わない人だった。 私が結婚する時に報告に行くと、 「旦那さんの言う事は何でも聞いて しっかり務めるように」 と言われた。 Hさんは実に真面目で誠実で 働き者で利他的な人だった。 だから地域では人望が厚かったが 人の評判など気にする素振りもなかった。 自分が大人になってから Hさんの事を思い出すと 良い事しか浮かんで来ない。 何故同じ人に育てられて 私の母は世間体が第一で 人の評価が自分の基本の、 表と裏の顔を使いこなす人になったのだろう? と、ずーーーーっと疑問だった。 あの祖母に育てられて 何故あんなにプライドが高くて 影で人をこき下ろす、 自分が一番の人になったのだろう? と、ずーーっと不思議だった。 そのくせ人前では穏やかで優しく 有能な教師だと思わせていたのだ。 私が母と一緒に買い物をしていると 沢山の人に声を掛けられた。 そんな時、母のシナリオに沿って 私も穏やかに微笑んで挨拶をした。 何故か私の前では取り繕わなかったので、 母の本音を知っているのは 私だけなのかもしれない。 そんなに人の評価ばかりに囚われて生きていて 何が楽しいのだろうかと 私には理解できないのだった。 特に母が亡くなる前に認知症になり 子供返りして、 それまで見た事がない素直な感情を出すのを見て、 そもそもの母の基本は 単純で素直だったのではないかと思うようになった。 では何故あんなに世間体まみれの 体裁ばかりの人になったのか? 教師になって何かを刺激されたのか? 同じHさんに育てられた私が 時代や状況の違いはあるとは言え、 価値観が余りにも母と違うのは何故なんだろうかと、 長年納得のいかない点だった。 その考えを夫に話した時に夫が言ったのだった、 「それじゃない? お母さんはHさんじゃなくて お祖母ちゃんといつも寝ていたって所」 ああ? ・・・・ああああ!!! 「意地悪なお祖母ちゃんに可愛がられていたって 言ったよね? そのお祖母ちゃんの価値観を お母さんは小さい時に植え込まれたんじゃない?」 おおおおおおおお!! それだっ!! 母の祖母は血の繋がっていない母を可愛がり ずっと手元に置いていたそうで、 母は自分の母親が 祖母にいじめられていた事を全く知らずにいて、 確か母が小学5年生の時に Hさんが家事をしながら泣いていて ようやく事情を聞いて驚き、 その日から祖母と一緒に寝るのを止めて 無視するようになったと言っていた。 毎日一緒に寝ていた祖母が、 大好きな母親をいびる人間と知って いきなり大嫌いな人になったと言っていた。 そうだよね、 小学5年まで一緒に寝起きしていた祖母の影響は 何より大きいに違いない。 無邪気な母に、 世間体や自分が一番の価値観を植え付けたのは 母の祖母に違いないと 何十年も経ってようやく気付いたのだった。 そして継娘の生き延びた長女を、 常に自分の懐に押さえて置くのは、 継母の最大の意地悪だと思った。 自分の考え方を刷り込みやがったのだから。 認知バイアスは恐いね。 こんな簡単な事に気付かない。 まあ、私の認知が 歪んでいるだけかもしれないけれど。 私が高校2年生の頃だったか台所で母と話をしていて、 母の唯一恐くて最も憎い人間のおゆうさんの事を 私は同情して 「でもあの人も気の毒だね」と言った事がある。 父方の祖母のおゆうさんは、 大正時代に山形の町中で自転車屋を繁盛させていた夫を 息子が3歳の時に病気で失い、 根性振り絞って産婆さんと言う命を預かる仕事をして、 次に出会った人(叔母の父親)も戦争で命を取られ 怒りと淋しさで爆発しそうなネガティブ精神まっしぐらで 世間を恨みながら生きていた人である。 私は孫として可愛がられなかったとしても、 母が死んでも呪うと言った人であったとしても、 おゆさんが人として気の毒だと思ったので口に出したのだが、 これが母の逆鱗に触れた。 「あんたは偉い人ですよ! どうせ私は根性悪い人ですよ!!」 と叫びプンプンプンプンふくれて 私を責め立てたのだった。 それを弟と私は驚いて黙って見ていた。 多分あの頃までは母は私を子供扱いして 要求と命令と責める事をしていたのだが、 その後、私を嘲るという手段も取り入れるようになった。 この嘲ると言う意地悪に 母は弟をも巻き込んで二人がかりで私を嘲るようになった。 「どうせあんたは何をしても続かない」 「どうせあんたはろくな事をしない」 「あんたなんかと結婚する人はいない」 何度も何度も、 二十代になっても言われた。 自分が親になって思うに、 子供に要求し過ぎるだけでも歪めるのに 子供を嘲ったら 自信が全く持てなくなって 生きて行くのがとてもとても大変になる。 なんだって私の母は 私をあんなに支配したがったのか? なんだって自分の娘を あんなに嘲る必要があったのだろうか? と不思議だったのだが、 母方の祖母Hさんを基準にすると 理解は出来なくて当然だと思った。 母の祖母のTさんだったか(名前うろ覚え) その人の基準に照らすと母が見えて来る。 母は自分の祖母Tさんの言う通りに受取り、 そのまま行動していたのだと思う。 確か私が高校3年頃だった。 やはり台所で母は私を責めていた。 「あんたは常識外れだ」と母は言った。 「常識って何?」と聞くと 「みんなが正しいと言う事だ」と母は言った。 「みんなが正しいと言う事が、 本当に正しいとは言えないんじゃない? みんなが正しいと言って戦争で人殺しをするのは 本当に正しい事なの?」 「あんたは屁理屈だ!屁理屈屋だ!」と母は言って いかに私が屁理屈かを並べたてた。 この時の情景はよく憶えていて、 母は台所の流しで洗い物をしていた私を 弟も非難するように仕向けたのだった。 これを思い出すと、 母は物事の成り立ちとか真意とかを考えずに 大人から言われた事を 丸飲み込みする人だったんだと思う。 自分が丸飲み込みして生きて来たのに 娘ごときに言い逆らわれているのだから、 理解不能に陥って恐くなったのかもしれない。 そうか、母は恐かったのだ。 娘は自分と価値観が違い過ぎて さっぱり理解できない。 親の私が正しいと言う事を 正しくないと言う。 何を言っているんだ! 全く理解できない。 大人の言う事は何でも言う事を聞かなくちゃいけないのに。 理解出来ない娘は恐い。 そう、人間は理解できないものは恐い。 だから私が恐かったのだ。 世界で一番嫌いなおゆうさんに同情する娘が恐かった。 しかも息子のように成績が良くて 世間に自慢できる所がない娘ごときに この優秀な私が振り回されている。 それで娘を嘲ってこき下ろす事で 自分を守るしかなかった。 自分が死んでも恨むと宣言した姑を娘が擁護するなんて、 絶対許せなかったのだ。 馬鹿にしていた娘が楯突いて 自分より大きな人間のような事を言い出したので 母のプライドをいたく刺激したのだ。 自分が人を客観的に見る事が出来ないのに 自慢じゃない娘がおゆうさんを許しているので、 自分を守るには 娘を下に落とさなければいけなかったのだと思う。 だから自分より劣る存在にするために 嘲る必要があったのだと思う。 そう言う事なんだろうなぁ。 自分で考えて来なかったから 恐かったんだろうなぁ。 結論として、 どの人間も弱くて必死で生きている。 自覚があるかないかは別にして みんな一生懸命に生きている。 ずーっとあの家で育った弟は 自分を守るために 母の味方を貫いたのだ。 私は他所で育ったから あの家の歪みが見えたんだろうと思う。 母は母なりに頑張って生きていたし、 亡くなる頃は可愛い子供だった。 生まれた時はみんな可愛い子供だった。 遺伝子と環境の組み合わせで 人間は沢山の事を学んで 知識や知恵を積み上げてその人になる。 傷も歪みも持ったまま死んで行く。 だけど思い出さなくても 沢山の記憶は脳と全ての細胞に残っている。 その人の人生はその人の身体全部が知っている。 脳と身体の細胞全部に刻まれた あらゆる事を知っている。 自覚していないだけで 本来人間は沢山の事を知っているに違いない。 それでこの事を 傷ついた脳と身体に直結できたら、 私は優先順位に苦しまずに 大事な事を選べるようになるかもしれない。 一昨日、せっかく会いに来てくれたK子ちゃんに また母の話をしちゃったよ。 こうして文章にして整理したら 少しは知恵を得て 母の呪縛から卒業出来るかな。 脳の可能性を信じているので 諦めずに頑張るよ! いつか母との良い思い出を語る事を 自分に許せる日が来ると信じているよ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 17, 2016 04:22:07 PM
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