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カテゴリ:抑うつ感
お昼過ぎから雷が轟き始め、今日も激しい夕立が
あった。でも、この夕立のお陰で美しい虹を 1年振り位に目の当たりにした。薄い虹。 とても綺麗であった。心に蔓延った虚無感を、 あの虹の向こう側へ投げ飛ばしてしまいたかった。 地球上にある生命体で人間が唯一与えられたのは、 考える事・知識を探求する事であろう。 そうして私は『虚無』について考える様に なったのであるが、どうやらそれに飲み込まれて しまったようである。 上記で述べたように、人間はよりたくさんの知識を得ようとする。 その欲求がある。唯、健康な人はずっと『虚無』について 考える事なく過ごせる事もあると感じる。 しかし、私はそういう星の下に生まれたのか、 それについて考える事に取り憑かれてしまった様である。 主治医に指摘された事であるが、 どうやら私は『虚無』について思慮を深める余り それを見詰める自分が「虚無に陥っている事」を 見逃していたようである。余りにも危うい状態になっている。 なので、心配した主治医は出張に行った帰りの 新幹線の中から、電話診察の続きをして下さった。 最近、何をしてもその後に残るのは虚無であると 感じている。兎に角、虚しい事この上ないのである。 一応、『虚無とはそこに在るもの』と区別はしている。 そのようにして取り込まれないように気を付けていた。 でも一旦それに取り込まれると、抜け出すのが難しい。 とは言っても、健康な人に見られるように 『虚無がそこにあるのに見ようとしない事』は 二重の虚無である。 『虚無』に飲み込まれてしまった事は、 次に述べる事を忘れていたからであろう。 『人間が生きている事自体は虚無ではない。 それを知ろうとする事で虚無が訪れるのである』 ・・・虚無について考えるのはここら辺一旦止めておこう。 話は変わって。 『甘え』についてであるが、 これは人間関係を築くに当たって、とても大切なものである。 依存とまで行くとまずい事になってしまうが、 『甘え・甘えられる事』で良好な人間関係が成立していると 言っても過言ではないであろう。 しかし私は、妹が生まれ弟が生まれ「お姉ちゃん」になった頃から 甘える事は許されなかった。だから未だにどうやって人に 甘えたら良いのかなんて余り分からない。 そして親に甘えようと思って出た態度を、拒絶された事もある。 一番虚しいのは、 甘えを対象者に投げて、何も手応えが無かった。或いは無視された と言う事であろうと感じる。 私が甘えたのは、子どもの頃の事であった。 小児喘息を患っていて、よく熱を出す子どもであったから、 余りの苦しさで母に側にいて欲しいと思ったのである。 しかし、母は表面上の手当てをするだけして、 後は放置する人であった。 熱が出て苦しく、心細くて側にいて欲しかった。 「しんどいよ」といって甘えたかったが、 母は家の中でも遠い場所にいた為、 声が届く筈もなかった。それは哀しい記憶として残っている。 けれども今はお互い年月を重ね、少しずつ改善されつつある 母子関係がある。だから微少ではあるが、甘える方法を 見出そうとしている最中である。 虚しくなったり、寂しく心細くなったりした時は、 一旦その思考から離れてみるのも一つの手段であろう。 そして好きな本を読んだり、面白いDVDを観たりして 凝り固まった思考や心を解したいと思う。 毎日毎日続く過食嘔吐は途轍もなく苦しく、虚しいものであるが 決して無理を重ねる事なく、ほんの少し前を向けるだけでも 儲けものだと感じられるようになりたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.08.26 21:10:06
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