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カテゴリ:抑うつ感
夜中、突然土砂降りの雨が降り始めた。
殆どの人達が眠っている夜中。時々通る車が 道路の雨水を跳ね上げる、心地良い響き。 私はタイピングする手を止め、暫し屋根を叩く 雨音に聞き入った。どんな音楽よりも癒される。 唐突ではあるが、今、私は父親と絶縁状態である。 もう何年も会っていない。妹と姪には会いに行っている みたいではあるが。矢張り父にとって孫は可愛いものなのであろう。 父からは、小さい頃から病気を患った後も、酷い言葉で 襲撃された。傷付いた心は、もう父との接点も無くなった 事から、闇に葬るしかないであろう。例え癒えるのに 時間が掛かったとしても。 父から受け継いだものはある。それは 『勤勉』 である。 父は仕事をサボる事も無く、毎日真面目に通勤していた。 今も同じである。また、父方の祖母が入院した時も 4人兄弟の3番目である父1人が、仕事をしながらも 毎日見舞い、世話をしていた。 けれども、リストラにあった後の父は酷かった。 祖母の遺産を殆どギャンブルにつぎ込んだり、 良い格好を見せようと、借金をしてまで私たち兄弟に お小遣いを与えたりした。そして百万単位まで 借金が膨らみ、養育費が払えなくなった暁には 酷い開き直りを見せた。そこで父に対する軽蔑が 生まれた。お小遣いをもらえたことはありがたかったが、 肝心の養育費を払えなくなるまで、借金を重ねる 父の考えを理解できなかったからである。 今は、ある工場でパートとして働いている。 車が酷く古くなり廃車になった為、15km位の 道程を猛暑の中でも自転車で毎日通勤している。 問題なのは、 勤勉にしていれば、他に考えを巡らせる事がない。 つまり、『虚無』を孕んでいるのである。 勤勉である事は、『虚無』から逃げていると言っても 過言ではない。真面目に1つの事だけを見詰めて 勤勉であると、ふと立ち止まって考慮を巡らす事はない。 『虚無』について考えない。 それらから逃げているのである。 ふと立ち止まって思慮を深める事が必要であるのに、 『虚無』と向き合う事が恐くてそれをしない。 これは『二重の虚無』である。 私は父から『勤勉さ』を引き継いだが、病気になった頃から 『虚無』と見詰め合わねばならなくなった。 なので、病気が『絶対的悪』と言う訳ではないと感じる。 勿論、病気は苦しいし、辛い。何もかも放り出して 逃げたくもなる。 特に過食嘔吐の症状が出ているときなど「此処は地獄だ」 とさえ感じる。 病症が出ていない時も、『哀しさ・寂しさ・心細さ』で 心が支配されている。心穏やかに過ごす事ができない。 一旦、『食べたい、食べたい、食べなければ』と言う思いに 支配されたら、過食嘔吐からは逃れられない。 そこにも一抹の虚無感を覚える。 私は文章を綴る事が大好きであるが、これも放り出して、 今すぐ何かを食べたくなってしまう程である。 これは、『虚無』と向き合う事を拒否し、 逃れようとしている証拠ではなかろうか。 自分の心の中にある『虚無』とは 自分自身が責任を持って向き合わねばならない。 しかし、取り込まれる前に一旦思考を停止することも 必要である。 過食嘔吐をしている間は、正しく『虚無』である。 それだけは覆せない。唯、これは病症であるので 無理矢理抑え付けると、後々苦しい事になる。 病症が爆発した時程苦しいものは無い。 辛いものには間違いないが、共存する事も大切である。 その中で、どのようにして『虚無』とは反対側にある 『可能性』を見出すかが課題である。 『可能性』・・・これは誰にでもあるものである。 いつか私の中でも見出したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.08.30 21:32:53
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