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カテゴリ:虚無
木曜日はごみだしの日である。
早朝にゴミを纏め、ゴミ置き場へ行く。 東の空は柔らかく朝陽を 生み出そうとしていた。 飽く迄も柔らかく、優しい夜明けであった。 そんな哀愁が漂う朝の澄んだ空気を 深く吸い込み吐き出す。 身も心も澄んでいくようであった。 しかし私の心は醜悪である。 己を憎み、呪う気持ちで一杯である。 『いつまでこんな苦しい事を繰り返すのだ!』 と自分を責め抜き、やがて虚無の境地に至る。 本音は心の奥底に仕舞うしかないが、 「苦しい、辛い。もう嫌だ。」 と心は叫んでいる。 逸早くここから逃れたい。けれども逃れた先に 何も待ち受けているものはない。 だから、自分で責任を持って自分を抱えなければ ならないのであろう。 そして診察やカウンセリングで、その膨らみきった 心の空気抜きを行なっているのである。 過食をしている時は、無我夢中で 何も考えていないに等しい。 只管胃に食べ物を詰め込むのに必死なのである。 そうする事によって心の穴を埋める。 食べている時は、呆けた顔をしているのであろう。 虚無だけが私の周りを包んでいる。 そして全てを嘔吐して やっと現実感が戻ってくる。 虚脱感と共に・・・。 しかし、この症状を忌み嫌っては ならないのである。 これは心のSOSであるのだから。 こうする事でしか、心を慰められない 状態であるのだから。 『寂しい。心細い。哀しい。苦しい。』 そう叫んでいる心を蔑ろにしては 自分で自分を苛めているのと同じ事になる。 今では自分自身の『虚無』を受け容れられるが、 以前はそうではなかった。 『虚無』から目を逸らしたい為に、 毎日の様にリストカットをしたり、ODをしたりした。 一瞬はその痛みや怠さに身を任せ、 何も考えずにぽっかりとした穴に落ちた 気分であったが、凄く不健康であった。 もう今は決してリストカットをしようと思わないし、 ODも身体のダメージを考えると 酷いものはしないようにしている。 しかし、虚無は虚無であり、 辛苦は辛苦である。 それは如何ともし難い気持ちである。 表立って自分を傷つけるのを止めた代わりに どうしても心で自分の事を罵倒し苦しめてしまう。 その状況から救ってくれるのは、 温かい母の眼差しであり、 主治医やカウンセラーの言葉である。 それには深い感謝の念を覚える。 今は心が崩折れそうなほど 脆弱で打撃を受けると直ぐ落ち込んでしまいそうである。 でも、その自分を救えるのは、結局自分でしかない。 心をしっかりと持ち、脆い部分は日々強化するのが 大切なのであろう。 この病気は本当に様々な事を、私に与える。 辛い事も、また反して喜ばしい事も。 だから、病気に学ぶような形でゆっくりと 自分の歩く道を見定め、己のペースで歩いていく事を 大切にしたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.09.28 20:40:58
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