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カテゴリ:診察・カウンセリング
あるドラマのDVDを観ていたら、
眠る頃にはすっかり朝日が差し込んでいた。 嬉しかったのは、朝起きてきた母と 2人で笑いながらそのDVDを 観られた事であろうか。 そしてとても涙もろい母は、 泣き所ではだあだあと 涙を流していた。 母はドラマを観たり映画を観たりすると すぐ感動する感受性の強い人で、 涙もろい一面は、少し私も譲り受けて いるようである。 しかし、私は人がいると泣けない。 1人だと、ドキュメンタリー番組や ドラマでも泣きじゃくっているが、 何故か傍に誰かいると、内容に集中できなく なって、泣けなくなってしまうので不思議である。 朝のニュースを観ながら眠りに就いた。 今日は電話診察の日なので、 眠剤を少し減らして服用した。 だから、いつもより早く目覚めた。 そしてミルクティを温めて、 ゆっくり飲んだら身体中に染み渡って 心地良かった。 そして最近考えている事を整理した。 何だか最近、過食と嘔吐に対する 心持ちが変わってきている。 『本当はやりたくないな』 と言う気持ちが強い。 唯、時間が来るから過食を始めて 嘔気が訪れて嘔吐していると言う 何だか御座なりな感じがするのである。 本当は、過食と嘔吐をしている時間があったら 何か勉強をしてみたいし、もっと読書を したいと想うし、映画を観たいと感じるのである。 けれども12年も続いてきたこの習慣は 簡単に剥がれ落ちるものではない。 そしてまた、この行為によって心が救われている 部分も否めないのである。 精神病と言われている病気は沢山ある。 その中で、摂食障害はとても孤独な ものであると言える。 治癒に必要なのは、『共にある』という 状況である。 信頼を置ける人と“共に”何かをして 何かを感じて、明日へと繋いでいく事・・・。 これが大事である。 今までは、“役割”の中で生きてきた。 役割を担っていると、『共に』という 感覚が無くなってしまう。 病気と言う孤独感から癒される為には、 『誰かと共に色々な事をして過ごす』 と言った、共有する時間が大切だと感じる。 “役割”は家族等と暮らす中 一緒に過ごす上で、あって当たり前の様な 感じはするが、これは孤独なのである。 その“役割”を終えたら それでおしまいとなって繋がりがぷつりと 切れてしまうからである。 けれども『共に何かをして過ごす』と、 それから後も繋がっていられる。 これは温かい関係であろう。 こうして心の病気を患っていると、 どうしても『孤独感』を強く感じてしまう。 そんな時、尾崎放哉という漂泊俳人の “咳をしても一人”“墓地からもどつて来ても一人” と言った孤独感が滲み出ている自由律俳句を 想い出す。感じた事をぽんと投げても相手はいなくて こちら側に強く戻ってくるのである。 でも、今の私には傍に母がいる。 母は良い意味でとても変化があり、 以前過度な躾をしていた頃の母や、 病気の私を冷たく罵った母の 片鱗も見えない。 だから、可能性は無限大にあるのである。 その事から、私は希望や可能性を捨てたくない。 病気はいつになったら治るかなんて 全然分からないけれども、 長い目で見て、努力を怠らず ゆっくりと歩みたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.11.28 20:56:56
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