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カテゴリ:想い
あと10日で今年も終わる。
しかしそんな実感もなく、 いつもと同じ1日が始まる。 寝惚け眼のまま紅茶に豆乳を入れて 熱々のそれをふうふう冷ましながら 飲んでいく。ぼんやり曇り空を見上げ、 青空が見えないのを残念に想う。 身体がぽかぽかに温まる頃、 潔くシャワーを浴びる。 もう半年美容院へ行っていないので、 かなり髪が伸びた。 パーマは持続しているので、 相変わらずくるくるヘアーであるが、 一番長いところではウエストまで あと10cm位までになった。 通りでシャンプーが大変な訳だと ふっと笑いが漏れる。 私の1日は、夕方から始まり 朝に終わる。 でもその間の活動の中で、 内面から様々なものを築き上げていると 想うと、それも無駄な事ではないと感じる。 勿論、朝起きて夜眠ると言う規則正しい 生活をしたいと想うが、 夜起きている方が何だか落ち着くのである。 周囲が寝静まっている頃、ゆっくりと 自分の時間を持てる事が何だか 特別のような気がして楽しく感じられる。 こころの病・脳の病は、一朝一夕に 治るものでなく、毎日どんな生活を送り、 何を想い、考え、学んでいく事で 寛解へと近づいていくものであろうと感じる。 特に“学び”は大切なもの であろうと強く想う。 病気の症状に苦しみながらも、その中から 学び取れるものもあるし、 主治医との対話の中で学ぶものも沢山ある。 特に最近は、人間同士の関係について 思慮を深めているところである。 特に、『共に・・・』と言う部分について 考えている。 人間は1人では生きていけない。家族や友人など 様々な人間関係の中で生きている。 私は摂食障害に至るまでの過程の中で、 『共に』という概念が 物凄く薄かったように想う。 母や親族など上からは『母を助ける姉』としての 私を求められ、妹や弟に厳しく接さねばならなかった。 しかし、妹や弟も本来欲していたのは “母の愛”である。 だからその間にいる私は疎まれていた訳である。 上からは厳しく言われ、下からは疎まれ、 板挟みになって生きるのが辛かった。 そして無論、私も母の愛を求めていた。 でも、『姉』の立場でそれを求める事は 駄目な事だと思っていた。 『もっともっとしっかりせねばならない』 との考えの下、こころは寂しさなどで荒んでいった。 また、両親が離婚する前からも 『共に何かをする』 と言った体験が乏しかった。 父は自分勝手でまるで子どものように 自分の言い分が通らないと怒鳴りつけ、 まるで子どものようであったので 全く頼れなかった。 母は、いつも厳しくちょっとした粗相でも かなり厳しく打擲された。 そんな過去がありながらも、 今はカウンセラーや主治医との対話の中で、 歪みきった意識や概念を正そうとしている途中である。 人間と人間の関係はとても難しい。 思いやりも過ぎれば独りよがりになってしまうし、 相手の立場になって考える事は余りにも ディベート的な感じになってしまう。 大切なのは、 『こころを繋ぐものは何か』 と言う概念を見極める事である。 そしてまた、自分と相手のこころを 大切に出来ているかと言う事も 重要である。 人間関係の歪みや、困難でも こころを病む事はある。 実際、私が大学に通いながら働いていた時も、 上司に陰湿な嫌がらせを受けて 身もこころもぼろぼろになった。 そこでは私のこころなど蔑ろにされていた。 その体験があるからこそ、 私は人のこころを大切に考えたいと 想うようになった。 しかし、その線引きはとても難しい。 入り込み過ぎてもいけないし、 遠ざかり過ぎると何も見えなくなるものである。 この点については、まだまだ考慮の余地がある。 『摂食障害・過食嘔吐・・・。』 これが私の主な病であり、派生的に 『うつ病』をも患った。 周りから見たら物凄く自堕落で 情けない生活を送っているように 見えるかもしれないが、 私は毎日自分と闘っている。 そして自分を癒している。 これ以上もう頑張れないのは確かな事であり、 無理を重ねる事も実質的に不可能になっている。 けれども、思念は様々に巡らせる事は出来る。 今日と言う日はあっという間に去ってゆき、 いつの間にか明日を迎えている。 そんな短い1日の中で、自分はどれだけの事を 学べたか、考えたかと言うのが重要だと感じる。 また、母との生活の中でこころを思い遣る事も 大切である。 今日は色々話をして2人で大笑いした。 同時に欠伸をするだけでも笑えてくる。 そんな温かい家の雰囲気を大切にして、 お互いを思い合ってゆっくりとゆっくりと 毎日進んでいきたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.12.21 20:49:50
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