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カテゴリ:想い
外では雨と共に激しい風が
吹き荒れている。 植物たちは吹かれるがまま、 あちらこちらに体を傾けている。 外を歩けば、後ろから吹く風が 身体を勝手に押していく。 花屋では葉が散り、 置かれてある花たちは倒れ、 南天の真っ赤な実がころころと 転がっていた。 母は、相変わらず歯茎が痛むらしく、 昨日の夜は顔が腫れて痛々しかった。 何も出来ない自分がもどかしい。 とても悔しく感じる。 消炎鎮痛剤も余り効かないらしく、 辛そうにしている。 1日でも早く治りますようにと 願うしかない・・・。 私はどうして毎日過食嘔吐が欠かせないのであろう。 それも回数まで決まっている。 時間が来たら、お腹が空いていても 空いていなくても過食に走る。 過食嘔吐で寂しさを埋めようとするが、余計に 寂しさが増していく事も分かっている。 『迷惑ばかりかけてしまう申し訳ない気持ち』 『同じ事を毎日繰り返す虚しさ』 『その毎日から抜け出せない哀しみ』etc... これらが津波の様に押し寄せて ただ、立ち尽くすしかなくなってしまう。 しかし、その『寂しさ・虚しさ・哀しみ』を 私自身で抱き締めて大切にして よしよしと温める事が大切なのであろう。 そしてまた、私が患っている病気には 『人と共に・・・』 と言う体験が必要になってくるのであろうと感じる。 今の自分には『母と共に何かを体験する』 と言う事が大切なのであろう。 けれども、私の部屋と母の部屋は離れているし、 母も仕事で疲れているので早目に床に就く。 お喋りする時間も短い。 少し寂しいが、その短い時間でも 『母と話せる』と言った事実は嬉しいものである。 病気も患わず、普通に過ごしていたら 母との会話がこんなに貴重なものだと 想えなかったかも知れない。 病気であればこそ、大切な事に気付けるのかも知れない。 私は摂食障害を患ったプロセスで うつ病になった。 最初は、絶望的な気持ちになった。 摂食障害や強迫性障害、PTSDその他諸々の 病気を既に患っていたので、 その上に脳の病気になってしまい、 途方に暮れた。 今まで出来ていた事が出来なくなり、 身体を動かす事さえ億劫で堪らなくなった。 考える事は死ぬ事ばかりで、 死にさえすればこの苦しみから解放されて 楽になれるとしか想えなかった。 周りの事も一生懸命考えるけれど、 それに見合う行動を起こせない。 笑顔もいつしか消えてゆき、 笑えない日が増えた。 奈落の底に突き落とされた感覚、 底なし沼にずぶずぶと嵌りゆく感覚が 私の身体を包んで、苦しかった。 そんな時、カウンセラーが私の些細な良い所を 認めて褒めてくださる事、 主治医との対話で病と共に生きる為、 1回に長時間かけて考察のやり取りをする事によって 暗い海の底から空気のある方へ向けて 浮かび上がるような感覚を得られた。 昔の傷を治療するにはリスクがある。 “棘”が刺さるまでの過程が 病気の原因なのである。その“棘”を抜くのが 治療になるが、余りに大きな“棘”であると 大出血を伴いかねない。 だから、段階を踏んでゆっくりと 治療を受ける事が必要なのである。 また、うつ病は新しい自分に 生まれ変わるチャンスにもなる。 『病気が治る=元の自分に戻る』 とは限らない。それよりも、もっと 成長した自分になれるかも知れない。 私は病気を通して沢山の事を 学んでいる。 病気は、勿論物凄く苦しい。 全てを擲って逃げて消えてしまいたくなる。 特に『過食嘔吐』に関しては 寂しくて、辛くて、苦しくて、哀しくて 仕方が無い。そして虚しい。 けれども病症は、私にとって必要なものでもある。 だから病気である自分を全否定するような事は したくないし、過度に卑屈になったり卑下したりも したくない。人として、人の気持ちを考えられる こころの温かい人間になりたい。 そう生まれ変わる為にも、私は希望を捨てず 諦めず、病気の寛解を目指したいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.01.06 20:58:52
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