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カテゴリ:平穏
外に出たら先ず、
いつも空を見上げる。 様々に形を変えていく雲や 夜空に浮かぶ星の煌めきを 確かめたり、 きらきらと光を明滅させながら 空を飛んでいく飛行機を ぼんやりと眺めたりする。 私は今地上にいて、 あの空高く浮かぶ飛行機には 夜空の美しさを堪能している 乗客達がいる事は 何だか不思議である。 空を行く人々を感じながら、 私はいつものスーパーへ向かう。 夕方、起床したら母が居た。 最近はそれだけで安心する。 一言、二言、他愛の無い話をして、 次の仕事へ行く母を見送る。 そして私はいつものように 温かい飲み物を作って飲みつつ 一服をする。 こころに無理な事はしていないが、 先週は月曜日と水曜日以外は 過食嘔吐が1回で済んでいた。 つまり昨日も大丈夫だった訳である。 特別頑張ってはいない。 ただ何となく、 「過食嘔吐したくないな。じゃ、食べなくていいか。」 と想えるのである。 その想いは今もある。 そして私は自分自身に訊いてみる。 「寂しくて辛くはないか?」 「哀しく虚しく、苦しくはないか?」 「過食したい気持ちはないか?」 「こころは落ち着いているか?」etc... それらの答えとして、 「今の所、大丈夫!」 と想えるのである。 時には 「何が何でも過食嘔吐したい」 という想いに襲われる事はあるが、 その時は我慢しないで行動に移そうと 想っている。 しかし、今の所は平穏な気持ち、心持ちが 続いており、杞憂で済みそうである。 過食嘔吐が1回で済んでいるのは、 それをする気力がないという事も 理由の1つである。 また、その行為によって浮腫んだり 太ったりする事を避けたいと言う気持ちも ある。だから、「今やらなくてもいいや」と 想えるのであろう。 けれども、朝方の過食嘔吐は避けられない。 それを行なう事で、こころを保っている。 苦しく辛い事に違いはないが、 やはり私にはこの症状がまだまだ必要である。 私の好きな作家の中に、乙○と言う人が居る。 先日購入した、『失はれる○語』を いつも1回目の過食嘔吐をしていた時間に 読んでいるのであるが、その中の、 『傷』と言う作品は感動した。 細○貂々の『ツレがうつ○なりまして。』という ノンフィクションのコミックエッセイも泣けたが、 乙○の『傷』と言う作品も、物語として泣けた。 涙を流すと、こころがすっきりと 澄み渡る感じがする。 私は強いお薬を服用している為、 感情が平坦になり、起伏に乏しい。 喜怒哀楽もほんの少しのスパイス程度でしかない。 だから、感動して泣けた事が嬉しかった。 「ああ、私はまだ泣く事が出来るんだ」 と安心した。 今週の火曜日は、母と古本屋へ行く約束をした。 そこで沢山の本を購入しようと想う。 今日もまた、スーパーで納豆コーナーを 見たら、空っぽだった。 こころの中で 「もう・・・100仕入れて売切れるなら200仕入れてよ。」 と少し腹立ちを覚えた。 店員によると昼には売り切れているそうなので、 TVでのダイエット効果を謳った言葉に、 国民が如何にそんな情報で踊らされるのか と言う事を痛感した。 そして母の好物で偶に食べたくなると言う 豚足もこの日は売り切れていた。 なので2人してコンビニへ行き、 私は納豆2パックとインスタントの なめこお味噌汁を購入した。 母は、ミミガーを購入していた。 私がなめこのお味噌汁を買ったのは、 空腹に因る過食衝動対策の為である。 カロリーも低いし、流動物なので 摂取できる。 これからは頑張らない、無理しない程度で 少しずつカロリーの低い固形物も 食べられるようになれば良いなと 想っている。 気付けば、自分はいつも焦っているような感じが否めない。 だから、逼迫してこころの余裕がなくなり、 過食嘔吐に走ったり、何かをしていなければ 落ち着かないのであろう。 しかし、この頃は自分の中に居る“顔なし”と 相談しながら、『寂しい・哀しい・・・』と言った 気持ちを柔らかく包み込み、やっと 『ゆっくりとする』と言う意味が分かった気がする。 勿論此処に至るまでは、自分の力だけでは 到底無理な事ばかりだった。 母の深い愛情、人対人としての付き合い、 静かな環境、ゆっくりと過ごせる場所など 様々な条件が揃って、今は 何とか過食嘔吐の回数も減っているので あろうと感じる。多分このバランスが少しでも 崩れてしまうと、揺さぶられたこころは 忽ち過食嘔吐に走る事は目に見えている。 努力は怠りたくない。だから、長い目で 自分の事を見て、人間関係としての 母や主治医、カウンセラーと共に 今のこの変化と言うものを詳しく 探っていきたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.01.14 21:17:57
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