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カテゴリ:想い
近所の酒屋が閉店して数日・・・。
とても不便になった。 私はよくカクテルを創るので、 リキュール類が豊富においてある 其処は、本当に重宝していた。 発泡酒などはコンビニでも 購入できるが、リキュールや スピリッツ等は、大きな酒屋まで 車で15分位かけて 行かねばならない。 その分、母とドライブ出来るので 嬉しい気持ち半分、 「私の為にわざわざ・・・」という 申し訳ない気持ち半分が こころを占めている。 今日はもうカシスリキュールと バナナリキュールが無かったので、 その大きな酒屋へ向かった。 其処は初めて行ったのであるが、 『お酒の遊園地』 と銘打っているだけあって、 ビールの種類や焼酎の種類は 豊富にあった。 しかし欲しいリキュールは少なく、 いつもと違うものはちょっと高値で、 身を切る想いであった。 入店する前、何か貼り紙があったので 見てみたら、 「とおくの山にしゅぎょうに行っています。 金太郎より」 と書いてあった。母が八百屋できんかんを “金太郎”と聞き間違えたが、 酒屋にはいたんだなと妙に納得してしまった。 そして入店するなり背広姿の凄くすらっとした 人が微動だにせず立ち尽くしているので 見てみたら、紳士服売り場にいるような “マネキン”であった。 名札も付いていて、そのマネキンは 『松下利彦』さん と言うらしい。 不思議な世界観を持った 酒屋である。 その酒屋では、外国のビールもあったので、 私はベルギー産の“白ビール”を 購入してみた。 とても香り高く、フルーティーで 中々美味しかった。 色は確かに普通のビールが少し 白濁したようなものであった。 結構広い店だったので、 長居してしまった。 閑話休題。 最近物凄く考える事がある。 それは、 『時間とはなんて残酷なものであろう』 と言うものである。 栄えていたものが廃れたり、 続いていた幸せが突然断たれたりと 侘しさが如実に表れる。 永遠なんてあり得ないのであるから、 当たり前と言えばそうかも知れないが、 本当に虚しさを覚える。 「あの時は良かったのに」 「あの時は幸せだったのに」 と過去の栄光を胸に残し、 堕ちていく自分を感じる事こそ 残酷であるような気がする。 しかし時間は0.1秒も淀みなく 去り行き、未来が訪れる。 今と言う時間は8秒で過ぎ去り 過去となる。 私には戻るべき過去が無い。 戻るべき場所は何処にも無い。 主治医曰く、不幸の積み重ね だったのであるから。 しかし、大学生の時 大好きな人とお付き合いしていた 頃は、とても幸せであった。 『私も人を愛する事が出来るのだ』 という貴重な時間を過ごした。 初めて、『幸せ』を感じた。 それも結局は時間の経過で おしまいを迎えた。 しかし沢山の経験を積み重ねる事が 出来たのは素晴らしい事だったのであろう。 『時間は残酷だ』 と相変わらず想う事が多いけれど、 その中で沢山の学習をしている事に 気付く。 病気に関しても、2度入院が 必要となったり、その病院の中で 看護師さんの優しさに触れたりして、 今でもその温かさは胸の中に 残っている。 食事にしてみても、以前は 1日に7~8回過食と嘔吐を 繰り返していたが、 沢山の経過と母の理解が深まった事もあり 1日1回に落ち着いている。 それはとても楽である。 だから、今は今でしかないように、 過去は取り戻すことなど出来ない。 幸せを取り戻したくても、 記憶の中にしか存在しない。 それを私は最初、“残酷”と 表現したが、それは“時間”の 一面しか見ていないからであろう。 まだ、多面的に見る準備が 出来ていないのかも知れない。 それは、これから様々な事を 経験していく上で得られる 力なのかも知れない。 私の栄養補給は、ブログを綴る前に 摂取するク○ールの トマトポタージュスープと お風呂上りに胃薬を服用した後摂取する ホウレン草のポタージュスープである。 ホウレン草は細かく刻まれてあるので、 例え固形物でも余り抵抗無く 摂取できる。 しかし、どうだと言わんばかりの 普通の固形物は食べられない。 拒絶してしまう。 多分、胃の中にあると言う状態が 赦せないのであろう。 「これが私を太らせていく」 と言った気持ちになり、 我慢できず、食事が過食になるのである。 今はまだ、 「私を太らせる食べ物が恐い」 と感じる。 これに関しては、 カウンセラーとのカウンセリングの中で 認知の歪みを少しずつ正していかねばならないであろう。 それまでは無理をせず、 出来るだけ栄養を摂取して、 ゆっくりと過ごしたい。 とても寒い日だったようであるが、 日中、仕事の合間に母が家へ寄った時、 エアコンを付けておいてくれた。 なので温かい中過ごす事が出来た。 そのさりげない優しさが嬉しい。 だから私もさりげなく、母の脱いだ靴を 揃えるようにしている。 小さな事からこつこつと積み上げる 互いの思い遣りが、きっと強い 母子の繋がりになっていくのであろう。 当たり前のような事でも、私は 必ず「ありがとう」という言葉は 欠かさないように気を付けている。 この言葉は言う方も気持ち良いし、 言われた方も心地良く感じるものである。 時に、母と反りが合わず 少し喧嘩っぽい話し方になってしまう事も あるが、時間が経てばお互い忘れていて いつもと同じように接している。 親子・・・家族ならではの関係であろう。 今は病気で辛く、思い遣りが行き届かない事も 多いが、少しずつ母との距離を 近付けていって、病気の寛解に 繋がるような過ごし方をしたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.01.27 21:48:29
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