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凍えたココロ

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2007.03.02
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朝、一番強いお薬を除いた眠剤を

服用して、眠りに就いた。

今日こそは主治医と対話したいと

想っていたからである。

しかし親しらずが昨日から痛む為、

何度も断眠して眠った気が

余りしなかった。

夢ばかり見ていた。

1回目のアラームが鳴った時は

条件反射で止めてしまい、

また眠りに落ちたが、

2回目のアラームでは、

がばっと起き上がった。

取り敢えず糖分を補給しようと

想い、ミルクティーに豆乳を入れた

飲み物を作って少しずつ飲みながら

一服した。

17時半には病院へ電話する事が

出来た。







久し振りに聞いた主治医の声は

相変わらず温かく優しかった。

安心してこころを委ねられる。

余りにも眠り過ぎる事が

心配だったので、

そのことについて話したら



「皆勘違いしている所があるけれど、

 眠る事は良い事なんだよ。赤ちゃんの様に

 すやすや眠る姿こそ病人として理想の姿だから。」




と仰っていた。

『眠れるうつ病』『眠れないうつ病』があり、

『眠れるうつ病』の方が

寛解に早く近付ける。

うつ状態にあると、どんなに強いお薬を

服用しても眠れない場合がある。

以前の私がそうであった。

抗うつ薬を服用しても抑うつ状態から

抜け出せなくて、強力な精神安定剤で

何とか焦燥感を落ち着かせていた。

そのお薬の副作用に眠気があるが、

それでも眠るまでに至らなかった。

けれども今は、ゆっくりと訪れる

眠気に安心して身を任せ

眠る事が出来ている。

その分、厭な感情について

考えなくて済むし、心身も

休まっている。

眠り過ぎて悪い事は無いと言うのが

主治医の持論である。

そう考えると頷ける。







こうした自然の変化があったのは、

やはり母との関係と密接に結びついて

いるのであろうと感じる。

『一緒に困り合う関係』

が築けているから、病人である私も

安心できる部分がある。

病症が出ている時、本当に困ってしまう。

苦しいし、辛い。哀しいし、心細い。

それは如何にも出来ないものである。

私は、それを如何にかして欲しいとは

想っていない。ただ、この漠然とした不安な

気持ちを共に、一緒に抱えてくれたら

それだけで嬉しい。

母は専門家ではないし、専門家でもこの

病人が抱える不安を拭い去る事は

出来ないであろう。

だから、カウンセラーにしても精神科医に

しても、問題に対して

共に悩み、共に考え話し合うのである。

このプロセスを経るのが

カウンセリングであり、診察なのである。







摂食障害を罹患している人々は

本当に困っている場合が多い。

勘違いしている医者などは、

「3食きちんと食べて運動して過食するのを我慢したら良い。」

と片付けるであろう。それで診察を

お仕舞いにしてお薬の処方を行なって

はい、また今度・・・と言った具合かも知れない。

しかしこれでは、抱えている不安や恐怖、

病症に対する想いや心許なさ、

苦しさや虚しさが無視されている事になり、

困ってしまい途方に暮れるであろう。

カウンセラーや医者は、生きる上で

補助的な存在なのである。

でも、その補助力はこころを大切にする上で

とても力強いものである。

だから、一緒に困り合い、問題について

話し合い、解決へと導いていく為に

病人には大切な存在でもある。







摂食障害を患っている人々は、

『母親』との関係を悩んでいる人も

多いと想う。

理解して欲しいと想ったり、邪険に扱われても

関係を良いものとしたいと言う想いが

こころの底に有ると感じる。

母親の可能性を信じたいから、

『病む』事が出来るのであるし、

『病み続ける力』が存在して

いるのだと考えられる。

こうして病んでいられるのは、

母親の事を信じたいからではないであろうか。

私は、信じたいと想っている。

以前は母親の可能性を信じられず

絶望的であった為に

自殺未遂まで自分を追い込んだ。

でも今は、環境にも変化があり

母には共に生きていってもらえる

可能性が見え始めているからこそ、

希望を捨てないでいられるのである。







『生きる意味』と『生きる楽しみ』は違う。

一般の人は『生きる意味』を考える時、

旅に出て遊ぶ為に働こうとか

何か楽しみを見出したい等と

考える場合が多いであろう。

しかし、それは『生きる楽しみ』なのである。

『生きる意味』とは、自分が作るものではない。

“宿命を求め宿命を生きる”

と言う事なのである。

こう考えると難しいが、

私は何故生きているのか。何の為に生きるのか。

そして今現在置かれている自分の立場や

病気から何を学ぶべきなのか、

可能性は無限大に広がってくる。

“宿命を求め、宿命を生きる”事は、

いつまでもいつまでも付いて来る

命題であろう。

一生を終えるまで考え続けられるものであり、

それによって新たな道を拓ける事もある。

幾つになっても、可能性はそこに存在しているのである。

だから私は、諦めたくないと想う。

時に絶望感に打ちひしがれても、

命ある限りは歩きたいのである。







身体が眠れるようになってきたのは、

母との関係が良好になってきたと言う影響もある。

落ち着いてゆったりと眠れる安心感が

あるからこそ、ぐっすりと眠れる時間が

持てるのである。

そして、病気を治す為には睡眠が必要不可欠である。

起きている間は辛苦にまみれつつも

様々に考える事が沢山あり、余り休まらない。

今は病気の自分を生きる事で精一杯であるから・・・。

何れにせよ、あらゆる可能性を信じて

生きていく事によって

また新たな発見や気付きがあるかも知れない。

それを見落とさないよう、こころの目を

キラキラに磨いておいて

ゆっくりと歩みたい。





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Last updated  2007.03.03 01:16:37
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