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カテゴリ:想い
朝は何故かいつも
こころが不安定になる。 粟立つような苛々する気持ちを 落ち着かせる為に、 桃の木の前で手を合わせる。 そうすると、心身の緊張が 好い加減に解れて ゆったりした気持ちになる。 そして私は部屋に戻り 紫煙を燻らせる。 きっと、過食と嘔吐を 終えた後なので、 神経が昂ぶってしまうのかも知れない。 食べている間や排出している間は 何も感じないようにしているが、 それが終わった途端 急速に現実へ引き戻されるので それが辛く、苦しいのであろう。 日曜日こそは、2度目の食事を 始めてしまう前に眠ってしまおうと 想っていた。 お薬をいつもよりは多目に服用して 眠れるようにお蒲団へ潜り込んだが、 その目論見は失敗に終わり また食べ始めていた。 苦しいと分かっていても 私にはこの症状が必要なのであろう。 12時半には眠りに就いて、 起床したのは0時40分頃だったので 約12時間は眠れた。 睡眠時間をたっぷり摂れただけでも やはり心身の調子は違う。 いつもよりは楽に過ごせる。 最近は母も、 「無理せずもうちょっと眠っていなさい」 と言ってくれるようになったので、 安心して眠っていられる。 先日のように目覚めたら1時半を過ぎていた と言う状態になると、 変な喪失感があって焦ってしまうが、 『眠るのは悪い事ではない』 と言う主治医の言葉を想い出して 何とかこころを落ち着かせている。 明日は観たいテレビ番組があるので、 余り眠れないのが残念である。 病気を患った事で、 私は沢山のものを 失った。 それは時間であったり 友人であったり、 信頼関係であったりする。 これは社会で生きていく中で とても大切なものであり 無くてはならないものだと感じる。 しかし、 私はそうしないでは 生きてこられなかった。 大事なものを沢山失い、 勿論後悔の念が押し寄せる。 けれども、得たものもある。 失ったものよりも、 もっともっと貴重なものであると感じる。 自分の弱さに気付けた事や、 その弱さを認めて生きていく力、 弱きものを慈しみいたわり 大事にする想い等、枚挙に暇が無い。 哀しく辛い想いを沢山味わったけれど、 私はこうして生きている。 摂食障害を患う事によって、 私は窮屈で自由のない『良い子』から 少しは脱して生きているような気がする。 『良い子』は大人などに従順であり、 期待を裏切らないように 必死で自分を偽り頑張って 褒められようとしたり 認められようとしたりするものである。 でもこの病気を発症してからは、 どんなに頑張っても、 病気を発症する以前のような 模範的な『良い子』でいる事は 難しくなった。 病症は兎に角自分を苦しめるし、 辛く哀しい想いをもたらす。 所謂『きちんとした生活』を送れないし 食べて吐く行為自体、 『良い子』のやる事ではないであろう。 それでも今までのように認めてもらいたい 気持ちで、一生懸命になる。 そこに無理があるように感じる。 私は沢山の病気を背負っているが、 そんな事問題ではない。 強く出ている症状は摂食障害 であるけれど、 その病と共に生きることを 模索している。 この病は一朝一夕に治るものではない。 そして医者やカウンセラーに治してもらうものでもなく 結局は自分の持っている『力』が 影響する。 ただ、主治医と対話を重ねたり、 カウンセラーと問題を話し合っていったり する上で、生きるヒントは与えられている。 だから、私は診察を受けてカウンセリングを 継続しているのである。 一般の人よりも、相性の合う 専門家と話し合う事で 少しずつ前を向いていけている状態が 自分の歩む道を間違ってはいない事を 証明していると感じる。 独りで鬱々と病状について考えていても 私は前に進む力は無い。 だからこそ、週に2回診察を受け 2週に1回カウンセリングを受けているのである。 どのように生きていくべきか・・・。 それが課題である。 たっぷり眠れると、その分こころは落ち着いている。 睡眠時間が3時間位であると、 身体が震えたり、意識が朦朧となったりして とてもしんどい。 またそれが、生きていく事が憂鬱であるという 気持ちへと向かわせる。 毎日同じ事を繰り返して、 自ら辛く苦しい状態に陥る真似をして いい加減厭になってくる。 しかし、上辺だけ見ると行動は同じでも その時々によって抱いている考えや気持ちは 違っている。 その小さな変化を見落とさない事が 大切なのである。 いつも焦りがちであったり、 自分を責めがちであったりするが、 『ゆったりとした気持ち』を大切にして 過ごしたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.04.09 01:37:15
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