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カテゴリ:診察・カウンセリング
蒸し暑く
寝苦しかった昨夜、 堪らずエアコンをつけて 就寝した。 一応タイマーで 切れるようにしておいたが エアコンをつけて眠ると 起きた時怠い。 頭もぼんやりしていて 何故か苛々する為 また食べ始めて、 時間を潰していた。 もう疲れたと 何もかも放棄できたら どれだけ楽であろうか。 しかし、私が病気である事実は 覆せないし、逃れられない。 症状も、如何にか出来そうで 如何にも出来ない。 意志だとかコントロールするだとか そんな次元ではないのである。 症状は症状として 受け容れねばならない。 でも、何故症状が現れるのかを 熟考する事は大切である。 胃痛は、相変わらず続いている。 2~3日で簡単に 治る訳ではないと分かっているので 何とか我慢するしかない。 一応、胃酸を抑えるお薬は 効いているようで、 吐血の回数や量はぐんと減った。 この胃痛は、 神経的なものもあると感じる。 自分に嫌悪感を覚えて 必要以上に責めたり、 辛い感情に覆われたりする時、 ズキズキと痛み始める。 最近は、スーパーへ行く度に 痛みでうずくまっている。 カゴ一杯に詰め込まれた 商品・・・これらを見ていたら 「またこれを食べて吐くのか。」 と自分に怒りが湧いてきて 虚しさを感じる。 そんな時、噴門部分の辺りが 波打つように痛み始めるのである。 胃が痛む時、 つい前屈みになってしまうが、 本当は背筋を伸ばしたほうが良いらしい。 しかし余りにも痛いので 背筋は曲がる。 痛む場所に手を当てて おまじないの様に 「痛いの、治まれ・・・。」 と、胸の中で呟く。 けれども、そんな事をしているより さっさと買い物を済ませて スーパーを出た方が得策だと 気付いた。 今もまだズキズキ痛むが、 スーパーにいた時よりはマシである。 主治医は、このように 弱っている時こそ 母に甘える事が大切だと 仰っていた。 小学生の頃、 父親が一方的に母を詰り 怒鳴りつけ大声で罵っていた。 脅す為にテーブルをガンガンと 叩いていた。 私にとってその光景は 恐怖であり、虚しくもあった。 まず、泣いている母を救えなかった事。 そして子どもの私には 仲裁に入る事すら出来なかった事も 辛かった。 卑劣で頭の悪い方法でしか 自分の威厳を保てない父に 激しく嫌悪感を抱き、 でも唯耐えるしかなかった母を想うと 哀しかったし 何も出来ない自分がもどかしかった。 そのような経緯があり、 私は“ストレス性胃炎”を 患った。 不幸だったのは、 毎日痛みを 訴えていたのにも拘らず 誰も取り合ってくれなかった事である。 つまり、無視されていた。 それだけならまだしも、 その頃担任だったオバサン教師は 「お腹が痛いだなんて気が弛んでる証拠だ!」 とキレて怒鳴りつけてきた。 父は、私が朝、余りの痛みに もんどりうっていると 朝御飯を食べながら私を見て鼻で笑い、 「ふん、腹が痛いのなんて 放っといたら治るわい。 さっさと学校行く用意せんか。」 と涼しい顔をしていた。 ショックだった。誰も助けてくれなかった。 やがて胃痛によって 学校を何度も 早退するようになって初めて、 病院へ連れて行ってもらえたのである。 あの頃の痛みを、 原因は違えども感じている。 主治医は仰った。 「あの頃、周りの大人にことごとく無視されて 苦しいのに甘えられなかった。 今のあなたのお母さんとの関係ならば 甘える事ができるでしょう。 ここで甘えられなかったら また過去の繰り返しになるよ。」と・・・。 この言葉が胸に残ったので、 良くなりつつある母との関係に 身を委ねてみようと想った。 そこから、また新しい自分が 生まれるのではないであろうか。 摂食障害。 この病は中々理解を得られない ものであると感じる。 普通の人から見れば、 「そんなに沢山食べなきゃ良いだろう。」 「吐くくらいなら食べなきゃ良いだろう。」 「程々に食べたら良いだろう。」 と感じるらしく、上記の言葉を 平気で言う。 それが『正しい』と 信じているからであろう。 この、一見正しい事は 大変厄介である。 摂食障害を患っている人々は どれだけこの一見正しい言葉に 傷つけられ 辛い想いをしてきたであろうか。 この病を患っている自分ですら、 「何が正しくて何が正しくないか」 なんて分からない。 敢えて言えば、「正しい、正しくない」 と区別する事自体、 傲慢なのかも知れない。 でも、摂食障害特有の考えとして 白黒はっきりさせたいという 強迫観念もあるので そう考えてしまうのも 仕方が無い事だと私は想う。 摂食障害の症状だけを見ると、 普通の健康な人は 一見正しいと想われる 意見を述べずにいられないのであろう。 しかし、『正しい』は難しい。 言う人によって、その重みは 違ってくる。 それぞれ、人によって 『正しい』事に対する 見解があり、考えがある。 でも、それらを弱っている人に 諭すようにぶつけても、 何ら解決にはならない。 人を諭すには、それまでのプロセスや 紆余曲折を経て 出来た関係性が必要である。 そして、クライマックスに 人は諭す事が出来て、 諭されるのである。 何も知らない人が 自分だけの正義感や正しさを 主張しても、空振りに終わるか、 人を傷つけるだけになってしまう。 だから私も気を付けなければならない。 どうしても『正しさ』を 求めてしまうからである。 でも、今回の診察でこの考えを 得た事によって、 考え方を少しずつ 変えていきたいと想った。 言葉は難しいとつくづく想う。 主治医との診察の中でも 誤解を招いたり、誤解したり 色々とある。 勿論、話し合いを重ねる事によって それらは解消されるが、 言葉1つでも、その人の捉え方によって 様々に解釈できるので 本当に難しいと感じる。 『正しい事』も人それぞれが 抱いているものであり、 勿論尊重されねばならない部分もある。 でも、一方的に押し付けてしまっては 何の効果も得られないであろう。 言葉に因っては心を傷つけかねない 場合もある。 だから私は日頃から気を付けたい。 そうしながら、自分の中にある 強迫観念を和らげられたらと 願って止まない。 難しく考え過ぎず、 胃痛が治まる事を願って ゆったり過ごそうと想う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.06.22 21:53:52
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