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カテゴリ:想い
朝と夜は、
堪らないほど冷える。 指先が、かじかんで 頭も回らなくなる。 床に就いた時は、 手っ取り早く ドライヤーの温風で お蒲団と身体を温めたら 漸く痺れが取れたので 眠れた。 何となく気分が優れなかった。 寒いと特に、何もかもが億劫になる。 「食べたくないなあ。厭だなあ。」 という想いになり、 夜中に1回過食と嘔吐を 終えたら、必ず眠るようになった。 寒いと眠る時間も長くて お薬を服用していないのに 2時間半も眠れたのは嬉しかった。 だが、6時頃目覚めたら 空腹を感じ、 結局食べ始めてしまった。 去年の今頃は、多分 こんなに寒い事はなかったと想う。 肌もすぐ乾燥するようになったので、 多分年齢の所為だろう。 冬でもがりがりと 氷を食べていた去年の自分が 信じ難い。 気分が優れないというか、 様々な事を考えていて 落ち込んでいた。 気分が沈んでいると、 自然と顔から表情が消える。 伏目がちになり、 マイナス思考が顕著に現れる。 堕ちていくスピードは 時間を経るごとに増していくので 悪循環となっている。 そんな感じでうじうじしながら シャワーを浴びていた。 丁度その頃、母が帰宅した。 母が家に居る事で安心して 浴室から出たら、 柱の影から顔を半分だけ見せて 不敵な笑みを浮かべ 私を驚かせようとしていた。 浴室のドアから母の影が見えないので どこに行ったのかと考えていたら、 そんなお茶目な事を 企てていたのである。 吃驚はしなかったけれど、 母と2人で大笑いした。 笑ったら、うじうじ考えていた事が 何処かに吹き飛んだ。 スーパーへ買い物に行く際は、 私が先に家を出て徒歩で向かう。 その後、母が車でスーパーへ行く。 そして合流する。 不思議と、2人の具合が悪い時は そんなに広くないスーパー内でも 中々お互いの姿を見つけられない。 今日は、母が先に私を見つけたらしく、 またまたお茶目な母は 物陰から半分顔を出して私を見詰めていた。 これは不意打ちだったので驚いた。 「もう!また!何しよんよお!」 と笑ったら、 「吃驚したやろう?ねえ、吃驚したよね?」 と私に確認する母が居た。 そこでまた、2人で大笑いした。 その頃には、私は何を悩んでいたのか すっかり忘れていた。 笑う事って、本当に素晴らしいものだと想った。 些細な悩みなら吹き飛ばせるし、 笑うと何より体がぽかぽかしてくる。 それに、良い事も呼び寄せるようで、 私にとっては嬉しい事である、 お惣菜類が半額になる時間が早かった。 だから速やかに買い物を終わらせることが出来た。 笑えるって、何だか嬉しい。 こうして笑える事も、 母に素直な気持ちで甘えられているから なのかも知れない。 また、相手が居るからこそ、 “笑い合う”事が出来る。 勿論、1人で居ても笑う事はある。 お気に入りのTV番組を観たり CMで好きな女優さんを観たりすると 笑みがこぼれる。 でもそれは、そこで終わる。 次には繋がらない。 相手が居て、笑い合うと 次に繋がる明るい会話が 生まれてくるものである。 病気の、苦しく辛い時間で 1日の大半は埋まってしまうけれど、 お互いの笑顔を見ると 「病気は確かに辛いけど、生きていこうかな。」 と“生”を受け容れられる。 不思議だけれど、事実である。 いつの間にか厭な気分は無くなり 今、そんなに調子は悪くない。 もうすぐPMSの症状が 襲ってくる頃なので 警戒はしているけれど、 少しで良いから “笑い合える時間” を大切にしたいと想っている。 此処の所、余りにも寒い朝と夜が 続いているので 身体を温めるのにも最適だと想う。 普段私は、無表情で淡々としている。 そして何もかも、冷めた目で見ている。 だからきっと、身近にある 楽しみや喜びを見落としているのであろう。 気付いたからには、 抑うつ状態が酷いときを除いて なるべく笑っていたいと想う。 そうする事で、気分が良くなるのだから。 やはり、母と私お互いに 余裕がないと、笑顔は生まれない。 「しんどいね。体が怠いね。もう何もしたくないね。」 という想いをお互い抱いている。 そしてそういった事を 誰に言うとも無く呟く。 そんな時、私も病気の症状で 苦しいから 「なるべく迷惑や負担を掛けないようにしよう。」 と考える。 そして少し、距離を置く。 最近、これがまた “悪循環” となっている事に気付いた。 迷惑を掛けまいとすればする程、 事態は悪化する。 精神的にもどんどん弱っていくし 鬱屈とした気分に侵される。 それが、過食と嘔吐に繋がったり “自傷”へ衝き動かされたり する事もある。 そういった状態こそ、 母が煩悶と悩み、苦しむ事に 結び付くのである。 私は、物事をきちんとしようと すればするほど逆効果になってしまう。 歯車が上手く噛み合わなくなり、 母との関係にも不穏な空気が漂う。 つまり、私が無理をして 平気な振りを装っても 母はそれを見抜き、落ち込んでいるのである。 この頃、母はよく 「苦しい時とか、過食しそうになった時は 私が寝てても叩き起こして良いけんね。」 と言ってくれる。 仕事で相当疲れている母の 睡眠時間を削らせてまで 私の醜態を見せるのは忍びないので 「ありがとう。気持ちだけを受け取るよ。」 と返事する。 実際、そう言ってくれる事だけでも 本当に嬉しくて仕方が無いのである。 数年前の母からは絶対に発せられない 言葉や想いだったであろう。 母と私、お互いが生きていく為に 私が自殺など考えず生きていく為に 母は、母なりに思いの丈を伝えてくれる。 感謝してもしきれない気持ちである。 摂食障害を治す事。 それには、 “こころの成長” が切っても切り離せない。 身体が太るという事を、 私は決して赦せない。 「痩せているからこそ、生きていられる。」 とまだまだ歪んだ思考を抱いている。 だが、 「精神はどんなに太っても広がっても良い。」 という主治医の言葉は 胸に刻み込まれている。 精神やこころまで痩せてしまったら 治癒は見込めない。 けれども、私は“強迫神経症”による 「~~は○○しなければならない。」 といった考えで思考の大半が占められている。 摂食障害の概念という枠の中に、 自分自身をぎゅうぎゅうに押し詰めている。 これでは、心を成長させて 広がっていきたくても 到底無理な事であろう。 「痩せていなければならない。」 「もっと痩せねばならない。」 という気持ちを抱き続けても、 身体を壊すだけである。 病気の観念では、そういった 痩せている自分だからこそ 生きていてもいいと赦している。 この問題はとても根深いものなので 主治医との話し合いの中で いつか折り合いをつける日が来ればと 願ってやまない。 今日の母は、 “私をどれだけ吃驚させるか” という事に楽しみを見出していたようである。 そんな母のお茶目な部分を感じると 私のこころが温かくなって 自然と笑いがこみ上げてくる。 そして、2人して大笑いする。 こうした事を経験すると、 現実を受け止め、現実で生きていく事こそ 大切だと感じた。 また、私は本当に些細な悩みなのに、 まるでこの世の不幸を全て背負った心持ちに なってしまう節がある。 笑い飛ばせる事なのだから、 殆どが瑣末なものであろう。 でも、そうした事で深く悩んでしまうのも 自分の特徴だと感じる。 悩むだけ悩み、 考えるだけ考え込んで、 いつか笑い飛ばして あのぴかぴか太陽に投げつけたり きらきら光る星に託したりできれば それも良いかなと想う。 “笑顔でいられる時間” 本当にこれを大切にしたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.22 21:55:22
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