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カテゴリ:抑うつ感
霜降り月の始まり。
ぼんやりしていたら あっという間に 今年は残るところ 後2ヶ月となった。 秋はいつの間にか 走り去っていって 余韻を味わう暇も無かった。 それほど、余裕が無かったのであろう。 朝方、余り眠れなくなった事を 逆手にとって、 PCに録画してある 映画を観て有意義に過ごしている。 昨日、今日で 『踊る大捜査線THE MOVIE 2』 を観終わったので、 明日からは 『おもひでぽろぽろ』 を観るつもりである。 朝方から、雨が ぽつりぽつりと降っていて 路面が濡れていた。 街路灯の明かりが道路に反射して 淡い光を放っていた。 可燃ごみをごみ置き場に出して 家へ帰る途中、 空を見上げたけれど 雨雲が蔓延っていた。 星も見えない仄暗い空は、 物悲しい。 日中と、朝晩との 温度差が激しい所為で 体調が思わしくない。 それは母も同じようで、 食欲がないという。 今日の夕飯は何を食べるのか 聞いてみたら、 「納豆だけでいい。」 と言うので、 「お野菜とか、お魚も食べた方がいいよ・・・。」 と提案すると、 「じゃあ、納豆に葱入れる。」 と返ってきた。 私が料理できれば 問題ないのであろう。 ブログを綴っている暇があれば お料理の勉強をすればいいと 感じるけれど、 何をすればいいのかさえ、分からない。 本当に、母に申し訳ない。 お味噌汁がまだ残っていたので、 それにお豆腐を入れて 食べてもらおうと想って、 それを提案したら、 受け容れてもらえて安心した。 今日、母の最後のお仕事が 祖父母の家の近くだった。 1週間の内、祖父母の家に 近い場所でのお仕事は 3回ある。母は、 その度に顔を見せに立ち寄っている。 私も、抑うつ状態から 少しだけでも脱け出せたら 顔を見せに行きたい。 母は、祖父母の家に行った時、 サラダなどを食べたらしい。 だから、今はおなかが空いていないという 理由があった。 何かしらお野菜などを 摂取していると分かって 安心した。 だが、私が 「何か食べないと身体に悪いよ。 倒れてしまうよ。」 と言っても、全く説得力が無い。 摂食障害である自分と 向き合うとき、 やはり“こころの底”を 覗き込む作業になる。 そこには歪んだ感情や、 汚く醜い感情で混濁している。 それらを見たり感じたりするのは 辛いものがある。 しかし、それらを全部含めて自分である。 どんなに目を背けたい事でも、 やがて受け容れられる時が 来るであろう。 怒りという感情を抱いたら、 罪悪感をも抱く。楽しみや、喜びを 感じた時でさえ・・・。 抑うつ状態でいる自分に対しても 罪悪感を覚える。 無論、過食と嘔吐をしている 際にも罪悪感を抱く。 殆どの感情が、行動が、 “罪悪感”へと繋がるのは 何故だろうかと考える。 多分それは、子どもの頃からの 癖であろうと想う。 理不尽な事で親から打擲されて 痛みを感じ、 「何故?どうして?」 と疑問を感じ、ほんの少し怒りを覚える。 そうすると、表情に出るのだろう。 だから、 「その目は何よ!」 と、殴打はもっと酷くなる。 だから、自発的な感情を 抱くという事は、 恐怖やら罪悪感やらに 繋がってしまうのであろう。 この課題については、 主治医と共に話し合いを重ねて 理解を深めていきたいと想っている。 そこで、“堪忍袋”が必要となるのであろう。 怒りを感じたら、一旦そこに溜める。 時間をかけてこなしていき、 やがて昇華させるか、 或いは 後々理性的に話し合うか。 そして、こころが成長していくに 従って、“堪忍袋”も大きくなるのであろう。 そうすれば、こころに余裕も生まれる。 いつも苛々したり、ぴりぴりしたり していては、身もこころも持たない。 こころの成長とは、“広がり”である。 際限なく広がっていくし、 年齢も関係ないので、 死ぬまで成長し続ける事が 可能である。 だが、何かに執着したり 凝り固まった観念を抱いてしまうと、 きっとそこで 成長は止まるのであろう。 「○○は~~でなければならない。」 等といった拘りは、 個性として必要なものだと想う。 しかし、それだけに 拘泥したり頓着したりしてしまったら 身動きが取れなくなってしまう。 今の私のように。 摂食障害の拘りもまた、 こころの成長を若干妨げている。 自由に、食べたいものを 美味しいものを食べる事が出来ない。 それには、 「○●は~~kcalもある。太るから食べられない。」 「●○は甘いから食べちゃ駄目だ。」 「固形物を食べたら過食と嘔吐に繋がるから この時間は何も食べちゃいけない。」 「太る事は赦せない。痩せていなければならない。」 等といった、これ以外にも 物凄い数の制約がある。 己が勝手に作った制限である。 そうしたものたちに固執して 執着して、何とか生きている状態である。 先ずは、それらから自分を解放して 自由にせねばならないであろう。 “栄養バランスの整った食事をして 適度に運動をする、健康的な生活” こそが理想的であるが またそれだけに執着してしまうと 自由がなくなってしまう。 こころの広がりもストップしてしまう。 余裕を持って、ゆとりのあるこころで 生活するという事は、 言葉で表現すると簡単なように 想えるが、実際は難しいものである。 兎に角、私は先ず、 「自己否定し過ぎる事をやめる。」 という所から始めてみたいと想う。 そして、何れは人道的、道徳的に 反する事以外で こころを解き放った状態の、 広がりをみせる成長を感じたい。 何となく、低空飛行ではあるが 安定しているような1日であった。 お薬で強制的に意識を消してしまえば、 身体もこころも楽になる。 余り健康的な方法ではないかも知れないが、 今の私にとって、意識があるということが 物凄く苦痛のなのである。 また、薬効が続いている間は 若干、落ち着いている。 苛立つ事や、抑えきれない何らかの、 言葉では表現できない暴発しそうな感情を 抱き続ける事は、涙も出ないほど辛い。 だが、今朝映画を観ていた時、 何度も泣いた。 私にはまだ、普通の感情が 残っている事が分かり安心した。 何れにせよ、ゆっくりと過ごす事。 無理をしない事を念頭に置いて、 1日1日を大切にしたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.01 21:47:33
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