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カテゴリ:無力感
希死念慮。
私が私を、 殺そうとする想い。 その想いをお薬でなんとか 抹殺しようとする。 まるで、殺し合い。 抗うつ薬や、抗てんかん薬。 メジャートランキライザー そして抗不安薬を 毎日服用する事により、 平素の日常を送れている。 お薬が効いていれば、 こころが酷く波立つ事も無いし 「死んでしまいたい。」 「消えてしまいたい。」 といった究極のネガティヴ思考からも 少しは疎遠な状態になる。 だが此処の所、毎朝 お薬を服用した後に 過食と嘔吐をする為に 心身の状態が思わしくない。 直ぐに自己否定したり 自己嫌悪に陥ったりする。 自分が自分を殺そうとする 強い強い気持ちを お薬の効果で消そうとするけれど、 相殺できない。 “希死念慮” これは一旦 鳴りを潜めるけれど 隙を見てまた堂々と現れるのである。 こればかりは、努力や頑張りなど 無意味である。 上手く受け流すしか術はない。 だから私は、うずくまって 息を殺し、為す術もない。 過去が、過去にならない。 これが一番、苦しい。 未だ先日病院に電話を掛けた際、 その直前までいた患者さんが 主治医の目の前でリストカットを した事は、ショッキングな事として 胸に刻まれている。 ハプニングとして受け容れ、 新しい思考として洗練させていくかを 考えねばならないのに、 “起こった出来事” だけに囚われてしまった。 その頃から、私の生活リズムも 狂い始めた。 以前は、1度過食と嘔吐を終えて 眠剤を服用したら 「嗚呼、やっと落ち着いて眠れる。」 とささやかな幸せを感じていた。 だが今は、眠剤を服用した後で 意識が朦朧とし始めても、 「何か食べたい。過食しなければ。」 という想いに容易く流される。 病症が私の脆弱なこころを、硬いコンクリートに叩きつける。 厭な音を立てて潰れたこころは 卑屈な笑みを浮かべて 元の形に戻ろうとする。 だが、手遅れである事を私は分かっている。 そうして私は、腑抜けたように過ごす。 無力というよりも無気力が のさばっている。 無力感から脱しようとも想えない。 兎に角、気力がどんどん奪われていくのを 虚ろな目で見ているだけである。 ショッキングな事があると、 私は直ぐ自分の殻に閉じ篭る癖がある。 外界からの、大切な人による 温かい声にさえも耳を塞いでしまう。 例の患者さんがリストカットしたのは、 その患者さんの問題であって、 偶々そこに電話というラインで繋がって しまったというだけである。 なのに私は未だそれを ずるずると引き摺っている。 断ち切ることが出来ないのは、 その患者さんの気持ちが痛いほど 分かるからかも知れない。 私も、リストカットという行為でしか 自分の苦しみ、こころの痛みを 表現できない時期があった。 こうして文章を綴るようになって、 少しずつそういった苦しみたちを 言語化できつつある。 そして、主治医とその言葉たちを 練る事によって新しい発想を 生み出していく・・・病気を治す為に。 だが今は、それさえも億劫なのである。 自分が作り上げたシェルターの中で 己を守るのに必死である。 否、守れていないかもしれない。 そのシェルターの中でも私は 自分を破壊する行為を 絶え間なく続けているのであるから。 そんな毎日での救済は、母との会話である。 母が仕事でどんな事があったのかを 聞いたり、姪っ子の話をしたりしていると 自然に顔が綻んでいる。 笑みがこぼれ、厭な事は一時だけ 忘れていられる。 母が私と一緒に生きていてくれる事。 病気に対して理解を示してくれる事。 病気の事で決して責めない事。 これらは正に生きる希望へと繋がっている。 「私は、生きていても良いのかも知れない。」 と考えられる。 子どもの頃、本当に母は恐怖の存在でしか なかったけれど、 現在の母は、深い慈しみで溢れた存在である。 その母と一緒にいるから 私は生きていける。病気を治そうとも想える。 だから私は、シェルターに篭っているだけではなく もっと外界から新鮮な空気を取り込み 新たな思考を持って 過ごさねばならないと考え直している。 『自虐の詩』という漫画を読んで 感じたことがある。 “人生には意味があり、 幸や不幸の尺度で計ってはならない。” という事である。 物語の最後には、人生に対する 著者の想いが詰まっている。 私はそれに強く共鳴した。 それが自分の生き方に活かせないのは 少々哀しいが、この漫画は 後生大切にしたいと想った。 不幸だと想われる事が次々に重なると、 人間は無気力になってしまうであろう。 今の私のように全てにおいて 投げ遣りになったり、諦めたりと。 だが、主人公の幸江はそれでも 一生懸命なのである。 沢山の、世間で言う“不幸”を 子どもの頃から背負いながら生きていたけれど 愛する人との暮らしの中で 彼女は沢山の事を学んでいる。 いつもちゃぶ台をひっくり返す イサオさんも、“昭和の男”を象徴した 硬派な人だけれど、 こころの底から幸江を愛している事が 物語の中から読み取れる。 愛には、沢山の形がある。 家族愛、友達間の愛、夫婦愛など・・・ それらを抱けるというのは とても尊い事だと感じた。 この漫画は、何度読んでも飽きない。 宝物である。 コンクリートの地面に 叩きつけられた私は 再生しつつある。 何度潰されても、私は何れ 新しい形になって自分を作り上げるだろう。 その為にはパワーが要るから ゆっくりとしたペースだけれど、 まだ、私は “希死念慮” に殺される訳にはいかない。 どんな手段でも、生きねばならないのであるから。 今朝、『ボーン・スプレマシー』を観終えた。 洋画の吹き替え版は、正直苦手である。 今まで映画館やレンタルして観る洋画は 絶対日本語字幕のものを選んでいた。 何だか、外国人が日本語で話しているという 違和感が気になってストーリーに 集中できないのである。 しかし今は、映画館に行く事も レンタルショップへ足を運ぶ事も 難しい状態なので、TVで放映される映画を 録画して観るようにしている。 映画が好きなのは、祖父から母、そして私に 受け継がれているものである。 認知症になる前の祖父は、 必ず新聞で映画の放送時間をチェックして 夜中に放送される作品は予約録画までして、 昼間ゆっくりとお酒を飲みながら観ていた。 とても長閑な風景があった。 今の祖父は、TVのチャンネルを変える事で 精一杯な状態であるから・・・。 母は映画好きの祖父に、よく映画館へ連れて行って もらっていたらしい。 その記憶が母に強く残っているのは、 祖父が外国船の船乗りであり 仕事先によっては半年に1度しか 会えない時期もあったからであろう。 子どもの頃から3ヶ月に1度、 1週間~3週間くらいしか 一緒にいられなかったらしい。 だから今の母は、祖父との時間も 大切にするため、 訪問介護のお仕事が祖父の家の近くの日は 必ず祖父母に顔を見せている。 私が今こうして生きているのは、 祖父と祖母がいて母を産んだからであり、 また、祖父と祖母を産んだ 曽祖父と曾祖母といったご先祖様がいたからである。 誰1人欠けていても、私はこの世に存在しなかった。 時に、「生まれてこないほうが良かった。」と嘆き 苦しむ事もあるが、これは凄くご先祖様に 失礼な事なんだと考えた。 それでもまた明日から 私の中で殺し合いが始まるのであろう。 自分を殺そうとする自分と戦う自分。 過食と嘔吐をしては無気力になり 放心状態になる自分。 今は兎に角、心身を休めねばならない。 睡眠時間が減少しつつあるので かなり身体が弱ってきている。 少々お薬は多目の服用になってしまっても ぐっすりと眠りたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.11 22:24:47
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