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カテゴリ:抑うつ感
また、数字に拘るようになった。
原因は、分かっている。 PMSの症状が、 出現しているのである。 その所為で強迫観念も 強くなってきている。 ぼんやりと煙草を吸っていても、 頭の中で数字が浮かび、 それが足し算されたり 掛け算されたりしていくので どんどん数字が膨らんでいく。 意識しないようにすればするほど、 何をするにも 数字の強迫観念が 付きまとってくる。 シャワーを浴びて身体を洗う際、 その回数まで数えてしまうのには 辟易してしまった。 PMSで厄介なのは、 抑うつ状態が酷くなる事である。 低空飛行でも安定していたこころが 上下左右に揺さぶられるのである。 こころの揺れ。 これがあるからこそ 生きているという事であるが、 安定していないと、疲れてしまう。 特に、バイポーラの症状も 顕著になるので心身が疲弊する。 バイポーラ。 主治医からその病名を聞かされた時は 納得してしまった。 私が高校生から大学生と 動き回れていたのも、躁状態が 続いていたからである。 スイッチが切り替わるように、 躁とうつを繰り返していた。 だから今になって物凄い反動が 現れ、動けないほどのうつ状態に 陥っているのであろう。 そういったこころの変化は、 心拍を図るグラフに似ている。 不整脈を起こすと、次の脈拍は 跳ね上がる。その状態が、“躁”である。 そしてその後は、跳ね上がった分、下がる。 それが“うつ”である。 暫く、元通りに脈打つまで 不安定な状態が続き、やがて落ち着く。 調子が良いと想ったら、私は注意しなければならない。 後に、うつ状態になるからである。 無理して楽しんだり笑ったりする事も、 “抑うつ状態”を引き起こす原因となる。 生き難いと今更ながら感じる。 正に、さっきまで穏やかに過ごせていたと 想ったら、不意に目の前が真っ暗になるのである。 未来に対して、絶望する。 例えば、今朝は 過食と嘔吐を終えて食器を洗う際、 歌を口ずさんでいた。 その前の行動で自業自得の 苦しみを味わい、疲れていたのに 何故か楽しく唄っていた。 食器を洗い終わり、 ホットミルクティーを飲みながら 一服していた時に、ズドンと堕ちた。 「毎日同じ繰り返し・・・。このままで良いのか。」 「否、良くない。何とかしなきゃいけない。」 「でも動く事すら辛いのに、何が出来るのか。」 「死んでしまえたらどんなに楽だろうか。」 というような事が 頭の中をぐるぐると回っていた。 考えるのが辛くなったので、 煙草を1口1口 深く吸い込み、煙をゆっくり吐いた。 何となく、こころに靄がかかり 自分と自分のこころが 離れていく感じがした。 取り敢えず、眠るしかないと想った。 朝方は、眠る時間が遅かった為、 目覚めたのは5時だった。 1時間ほど眠れたと想う。 『犯人に告ぐ』という本が 面白いので、つい眠る時間を 遅くしてしまうのである。 映画化されている作品なので、 とてもイメージしやすい。 主人公が、豊川悦司さん。 とある事件を切っ掛けに、 警察という組織の中でも アウトサイダー的存在になり、 その事件に切り込んでいっている所である。 雫井侑介という作家は好きなので、 やはり少しずつ読んでいる。 小さな頃から、好きなものは 最後まで取って置くか、 少しずつ味わう習慣がある。 例えば、子どもの頃 バースデイケーキのイチゴは 大好きだから、ケーキを食べた後に ゆっくり味わうといった感じである。 やはり、筒井康隆の本は読み終えた。 読み終わった達成感と、 「もう、読み終わってしまった。」 という残念な気持ちが半々である。 敢えて感想は述べないが、 夢の中でもまだその本を読んでいた。 「続きがあったのか!」 と喜びながら読み終えたら 内容は覚えていないけれど すっきりしたのである。 きっと、夢の中で納得のいく エンディングを迎えられたのであろう。 今夜、スーパーに向かっていると、 近所の住宅兼個人歯科で クリスマスのイルミネーションの 飾り付けをしていた。 此処は毎年、派手な飾り付けをする。 下手をすれば下品になる一歩手前 という所であるが、 遠出する事の出来ない私にとって、 お手軽にクリスマスの雰囲気を味わえる。 歯科医って儲かるんだなと イルミネーションを見る度に想う。 それほど、本格的なのである。 ふと、空を仰いだら 満月に叢雲という光景があった。 荘厳な雰囲気だった。 月明かりに照らされた雲は、 風に流されて形を変えるが その暗い色が美しいと感じた。 空を仰ぐ余裕があった事。 月を美しいと想えた事。 それだけでも、充分嬉しかった。 最近、睡眠はコンスタントにとれている。 だから、こころも幾分 落ち着いているのかも知れない。 眠剤を服用した後、 朦朧としながらの過食と嘔吐は、 苛烈である。 食べていても訳が分からない。 胃の中を、こころの穴を 埋めんが如く、無理矢理食べ続け 必死な想いで吐く。 胃の中を空っぽにするまで キッチンとトイレの往復を繰り返す時 壁や扉にガシガシガンガンぶつかる。 「これは、しんどい。もう、やるものか。」 という想いが強くなった。 こういった苦い体験を想い出すと、 たとえ眠剤を服用した後 食べたくなってしまっても どうにか堪える事ができる。 だが、PMSの症状が現れている時期は そう上手くいく筈がない。 苦しい事が分かっていても、 苛立ちや無力感から脱け出さんが為に 食べるという行ないに没頭する。 食べている間は、無我夢中なので 楽かも知れない。 けれども、その後が辛いという事は 何度体験しても学習できないのか、 怪我を負いそうになるまで 身体をぐらぐらさせながら事を遂行する。 辛い事が分かっていても、 そうせざるを得ない事。 過食と嘔吐という行動によって、 自分を保っている事は、 どういう意味を持っているのか 今一度深く考えたいものである。 病症の1つである事は明々白々である。 14歳の頃から、続けてきた事。 そうする事で、一瞬でも 心の拠り所を求めていた事。 だが、未来は “食べて吐く” という行為以外で、自らの心を 諌めたり、宥めたり、 安らかにさせたりする方法を 見つけなければならないであろう。 今はまだ、その道の途中にいるのである。 でこぼこで、ぬかるみがあって、 ゴロゴロと石が転がっていて 決して歩き易い道ではないが、 自分なりの方法で、虚無感より大きな 無力感と己を見つめる為 歩いていきたいものである。 ぐっすりと眠れると心地好いが、 夕方起きたら真っ暗だったので、 その時朝なのか夜なのか混乱してしまった。 こういう感覚は久し振りである。 一時、朝起きて夜眠るという 朝型の生活を送る事が出来ていたけれど、 母が仕事に行った後、独り、家で過ごすのは 余りにも寂しく辛かった。 まだその時期ではなかったのであろう。 過食と嘔吐の回数も増えて 生きていく事さえも辛くなっていった。 現在は、謂わば“半夜型”の生活であろう。 過食と嘔吐の回数が、減った事。 それだけが救いである。 決して健康的な生活とは言えないけれど、 母が居ないという孤独感は薄い。 でもいつまでも逃れてばかりではいけない。 これもまた、自分のペースで、 いつか1人の時間もゆったりと 楽しめる術を身に付けたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.25 21:57:28
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