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カテゴリ:想い
見上げた空は、
夕暮れの曇り空のようだった。 午前4時。 そんなに明るく感じたのは、 月光の強さのそれだろう。 星1つ見えないほど 白い雲に覆われた空を仰いでいた。 月は雲の隙間から 必死に存在感を知らしめていた。 そこに、儚げな力を感じた。 『犯人に告ぐ』は下巻に突入し、 どんどん面白くなってくる。 やはり読み終えるのが勿体無くて 少しずつ味わうように、読んでいる。 早朝起きてからは、大分前に読み終わった 貴志佑介の『硝子のハンマー』を 読んでいる。 この作家さんは、 ホラー・ミステリー系の 作品も楽しめる。 特に『天使の囀り』は圧巻である。 唯一この『硝子のハンマー』は 早く読みたくて初版のものを購入した。 読み返していても、わくわくと胸が踊る。 ドラマと同じく、 小説の中で動く主人公にも 血が通っていてそれぞれの キャラクターが確立していると、 その分小説の世界へ引き込まれる。 だからなのか、好きな作家さんは 偏ってしまう傾向にある。 小説の世界に没入していると、 自分の事や周りの事など 現実味が薄れていく。 それは、例えば “病気である自分を忘れる瞬間” でもあるという事で、 少し、楽である。 ただ、内容が濃くて重いものを 読んでいると、胸の辺りが ずっしりと感じる事もあるが・・・。 しかし私は、病気である自分を 受け容れたいと想っている。 病気には様々な形容がある。 身体の病気・脳の病気・こころの病気 というものが挙げられるが、 それらを差別する事は 間違っていると私は想う。 勿論、病気によって 痛みや苦しみ、辛さや哀しみの度合いは それぞれ違う。 けれども、こころの病 特に摂食障害については、 差別される傾向にある。 きっと、普通に食事ができる人から見れば 異常性が顕著であるからだろう。 しかし、摂食障害を患っていても、 毎日毎時間、普通に食事が出来る事を 願ってやまないし、 苦痛や哀しみ、孤独感を抱えている。 強迫性障害も、PTSDにも 似通っている事は、 “自分でコントロールできない” という所ではないであろうか。 そもそも、“コントロールする”という 考え方自体が間違っていると 主治医から何度も言われた事がある。 病気の症状を症状として受け容れて、 どのように生きていくか。 今は、それが問題なのである。 つい私は、先の事を考えてしまう。 「私はいつまでこの行為を繰り返すのだろう。」 「もう、治らないのではないか。」 「動けないのが情けない。これから先も、きっと動けない。」 という想いを抱きがちである。 でも、“今”がずっと続く訳ではないと カウンセラーから諭された。 それは、強ち間違いではないと感じている。 何故なら、半年前の私と今の私、 そして環境は違っているからである。 また、大学生の頃は 毎日リストカットをしたり 無茶苦茶にアルコールをあおったりして 荒んでいた。 今は、そこまで荒んではいない。 これもまた、少し前へ進んだという 事なのかも知れない。 病気を差別する、思慮の浅さ。 所謂、了見の狭さ。 これが、社会に蔓延している。 「癌を患ってるから苦しみは見るに耐えない・・・。」 「うつ病だからといって怠けるな。」 このような言葉を聞いたことがあるし、 見た事もある。 私の祖父は、良性のものであったが 大腸に沢山のポリープがあった。 胃潰瘍からの出血で倒れた事もある。 何れも、認知症と診断された数年後に。 私は、祈る事しか出来なかった。 「早く良くなりますように。」 「じいちゃんの苦痛が緩和されますように。」 このように、病気はなりたくて 患う訳ではない。 ただ、それ以前の生活、こころの動きによって 病気が発症する前兆は 後に考えられるものも、ある。 私が患っている諸々の病気も、 子どもの頃から積み重なってきた何かが トリガーとなったのであろう。 それらは、生きてきた中で避けられなかった 事柄であるし、そう生きるしかなかったから 今の自分がある。 だから、この病気を患った意味を考え、 病と共に如何に生きるかが課題だと考える。 想い出したくもない、 苦い過去もある。 逆に、想い出すと胸が温まる 優しい過去もある。 そうしたものを抱えているから、 現在、生きていて これから生きていく道を 模索できるのであろう。 布石を打つ為に、今出来る事は 【心身を充分に休めて、力を蓄える事】 だと私は想うし、 主治医もそう仰っていた。 睡眠こそが、大切だと。 こころの安定の為には、 処方されているお薬が一定量 いつも身体に入っていなければならない。 安定している事によって、 新しい想いが生まれる可能性が 高くなるからであろう。 ただ、PMSの時期には こころの動きが緩慢になり、 時に逆流する。 抑うつの波に飲み込まれ、 為す術もない私は、 只管希死念慮と対峙するしかない。 その上、PMSの症状が 和らいでも、 その後は腹痛や腰痛が待っている。 この中でもまだ、しぶとく 病症はまとわり付いて離れない。 そこには必ず無力感が、在る。 虚無感よりも厖大な、それを目前にすると 立ち尽くすしかないもの。 それが無力感である。 虚無とは、何もないという 物悲しさがある。 ただそれだけである。 中身が空っぽで、しかしそれを 何で満たせばいいのか分からない、 そんな虚しさがある。 一方、無力感は “無”なのに中には沢山のものが 内包されている。到底言葉では 言い尽くせないほど沢山の何かが。 それは観念的、抽象的なものもあれば 具体的、有形的なものもあるだろう。 それらは恐ろしいほど大きく 飲み込まれてしまうと、 私にとっては死す事以外 想いつかなくなるものである。 病症は、そこから脱出して “生きる”為のものであるとも 言えるであろう。 自ら進んで 苦しい事、痛い事、血を流す事を やっているのは、 今の私にとって無力感からの脱出 と捉えられる。 何れにせよ、私は1日1日の動きを 感じ取りながら生きねばならない。 祖父の、妹の旦那さんが亡くなったと 今朝、知った。 私は見た事も会った事もない人である。 それ以前に、祖父の妹や祖父の姪にあたる人とも 私たち家族は滅多に会わない。 しかし、母は近親者なので 明日のお葬式には出席するそうである。 初七日や四十九日の法要も行なう為 長い時間、80を超える高齢である 祖父と祖母を出席させるままにする 祖父の妹の気が知れない。 今日のお通夜にしても、夜まで 祖父母を引き止めていたという。 デリカシー。慮り。 健康な人でも それらを持ち合わせない人が多いと感じる。 また、それは若い人だけでなく 中年世代以上でも若い人の文句は 言えないほど酷い人も居る。 だから、【人のふりみて我がふり直せ】という 諺があるのだろう。 私も、決して傲慢にならず、 人を慮れる人間になれるよう、 努力をしたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.26 22:19:46
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