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凍えたココロ

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2007.11.30
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0時を超えたら

もう今年最後の月になるなんて

今年も早かったなあと

毎年想う事を考える。

秋はとっくに終わっていて

もう冬なんだという事を

痛感する。







ぐっすり眠れても、

やはりこの時期は

身体が重く、怠い。

シャワーを浴びるのも

休み休みでなければ

疲れてしまうので

30分以上かかってしまう。

けれども、その後の爽快感は

何物にも代え難いほど

幸せなものである。

良い香りが自分から立ち上るのを

感じると、

ほんの少し、ゆったりした

気持ちになるから不思議である。

冬でもシャワーだけなので

すぐ湯冷めしてしまうのは

仕方のない事であるが、

私にはバスタブにゆっくり

入れないのである。

気分が悪くなったり、

足の血管が痛くなったりする。

肌の乾燥も酷くなってきたので

丁寧にスキンケアをしていたら

一応肌荒れは治まって安心した。

お風呂上りに

化粧水をたっぷりお肌に叩き込み、

保湿ミルクをなじませる。

その行為が、心地好い。







いたわるという事。

これが、電話診察での

話し合いで中心となった。

こころの病を患っている方々は、

このいたわりの空気が

凄く薄い環境で育ったケースが多い。

例に漏れず、私の家庭も

いたわりのある環境ではなかった。

摂食障害は、“いたわる”という行為や

精神が薄い所で多く発症する。


日本の統計では、沖縄が一番

摂食障害の罹患者が少ないそうである。

それは多分、大らかな風土や

人々が集まるのが好きで

相手を思い遣りあいながら

お酒を飲んだり踊ったりするという

和やかな環境が昔から受け継がれて

いるからだと想う。

素晴らしい自然、住んでいる人々の

温かさ。それらが関係しているのかも知れない。

逆に、都会化が進んでいる場所ほど、

摂食障害を罹患している人が多い。

多分、自分1人が生きるのに精一杯で

自分をいたわるどころか

人をいたわる余裕もないからではないか。

そう感じる。

本土は、幾ら田舎の良さを残した所は

あるといえども

やはり都会化が進んでいるので

罹患している人は多い。

主治医にその事実を聞いて納得した。







決して、人の所為にしている訳ではない。

生れ落ちた環境、育ってきた環境によって

こころの病でも様々に違う病を

罹患している人もいるのであるから。

また、脳の病を発症する事もある。

摂食障害は、病気である。

これは、紛れもない事実である。


だから、過食や嘔吐そして拒食などの

病症を意志の力でコントロールしようとするのは

発想が乏しい上におめでたい事だと

主治医は仰った。

症状にまつわる事は、酷く体に障らない

程度でやっていくしかない。

その方が、無茶をしないで済むからである。

変に無理をして我慢した方が、

後々無茶苦茶な症状として現れる。

症状を“あるもの”として受け容れる事は

消極的なものではない。

積極的な対応だといえる。


こう仰った主治医の言葉が今も

胸の中に残っている。







いたわるという事。

これは、自分もいたわる事こそが大切なのである。

その上で、人をいたわる。

これこそが本物であり、この空気のような

自然な雰囲気が大切なのである。


私が今、生きる事を苦しく感じているのは、

いたわりの空気が薄い所で

生きているからであろう。

根本的な部分・・・つまり

自分をいたわることが出来ていないのだから。

その上で人をいたわるのは

偽善としか言いようがない。

人間のこころ全てに、いたわりは必要で、

それは積極的意味合いを持つ。


だが、私はそこにまで達していない。

自分を扱き下ろしている。

私は邪魔な人間だと。

家族に迷惑ばかり掛けていて

生きる価値など無いと。

それは、先日とあるブログで

読んだ文章に影響された気持ちである。

そこには、摂食障害者は

国のゴミであるようなことが書かれていた。

毎日、治そうと想い、願い

必死になって生きている。

正直、生きるだけで精一杯なのであるが

それでもいつか治す事を目標としている。

そのブロガーさんは

摂食障害を克服したらしい。

その為、向こう側の人間となったのであろう。

治らない人は情けないと見做す、

了見の狭い、思慮の浅い人間へと。

しかし私は、この病気が治っても

決して“治った人” “治らない人”

区別したくないと想っている。

差別してしまったら、いたわりのこころが

失われてしまうからである。

人をいたわることの出来ない人間は、

自分をもいたわれない。

そうなると、無力感

飲み込まれてしまうであろう。

摂食障害は、罹患した人によって

生きる環境はさまざまであるし、

症状も様々である。

だから、治っていくプロセスも

同じであるとは限らない。

治療法も様々ある。

それがその人にあっているかどうかも

一度試してみないと分からない。

入院して、治る人もいる。

入院して、逆に病状が悪化する人もいる。

生きてきた環境が違うのであるし、

人はそれぞれ違う人格を持っているのだから

枠の中に嵌める事こそ、

こころの自由度を奪い、狭隘なものへと

していく可能性も否めない。

病と共に如何に生きていくか。

これが今、私の命題である。







主治医からの言葉で印象的だったのは、

「うつ状態であることが当たり前なんだから、

 無理してテンションを上げず

 ちゃんとうつになることが大切。」


というものであった。

今の私にとって、過食や嘔吐といった

症状は、“生きる為の杖”である。

だから、僅かでもその病症が

出ていない時間があること、

過食や嘔吐をしないでいられるだけでも

凄い事だと仰っていた。

私は、1日中食べたり吐いたりするのを

続ける事はなくなった。

読書をしたり、映画を観たりする時間。

また、睡眠時間をとる事をなるべく

大切にしている。

そういった時間を持つ事は重要だと

改めて認識した。

あと、主治医は

「仕方なくて良いんじゃないの。」

とも仰った。

それもそうだと感じた。

抑うつ感が続く事も仕方が無い。

死にたい想いが溢れる事も仕方が無い。

摂食障害の病症が出る事で

苦しみを感じる事も、生きる為なら仕方ない。

少し、自分自身のこころを

重く難しく捉えすぎだと感じた。

率直で素直な気持ちこそ

大切だと考え直した。







昨日から今朝にかけて落ち込んでいたけれど、

主治医との電話診察を受診したら

幾分こころが軽くなった。

信頼の置ける専門家と、お互いが

こころを開いて話し合うという場を持てる

という事は、とても恵まれていると考える。

主治医も、“医者”という役割に

徹するだけではなく、

患者から学ぶという姿勢で

話を聞いて下さり、また主治医の意見が聞ける。

こうしたプロセスは、必然的なものであり、

それを辿って治癒への道を歩んでいるのであろう。

こころが揺さぶられる日常で

坂道を転がり落ちるように

苦しい時もあるが、

もう少し、生きてみようと想う。





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Last updated  2007.11.30 22:19:26
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