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2007.12.01
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カテゴリ:平穏
師走・・・極月の始まり。

本格的に冬という季節が

隅々まで行き渡っていると

実感する。

けれども私の毎日には

然して大きな変化も無く

いつものように

不安感に苛まれながら

息を繋いでいる。







何とも言い難い漠然とした不安感。

こころの底からそれが

ぽこぽこと湧き出していく。

不安感は蔓延る一方である。

何が不安なのか、何が怖いのか

それが分からないから

不安で堪らないのであろう。

苦しみは時間を経る毎に

膨らんでいくから

ブラッディメアリーを飲む事にした。

いつもより、ウォッカを多くして

作った。







緋色のそれは、いつ見ても美しい。

咽喉が焼けるような

きついそのカクテルを

少しずつ飲み下す。

酔ってしまえば、少しは不安も

頭の隅に追いやれるのではないかと

期待しての行動である。

身体がフワフワとして

ほんの少しの間だけ

私はゆったりとした気持ちになったが、

それは故意に作り出した

まやかしの安穏なので、

すぐ正気に戻り

不安感は当たり前のように

私の背中に圧し掛かった。

無理矢理逃れようとしたのが

間違いだったのであろう。

仕方ないものは、仕方ないものとして

受け容れるしか術はないと

覚悟せねばならない。








何かに対して夢中になっている時は、

邪念は振り払われている。

不安も余り感じない。

必死な想いでシャワーを浴びている時、

読書をしてストーリーの中に

没入している時など、

比較的楽な気分で過ごしている。

後は、食べているときであろうか。

過食となったら、その行為に対して

一心不乱であるし、

嘔吐して後片付けを終えるまで

他の事は何も考えられない。

一種の現実逃避だと

一瞬考えたが、違う感じがする。

病症は、私にとって無力感

囚われないようにする為の

1つの手段である。


ただ、無力感を覚えていても

決して無力ではない。


それに対応しようとしているだけでも

積極的対応だといえる。

ただ、いつか対応する行為が

過食や嘔吐といった

病的なものではなく、

健康的な行為になれば

病気の治癒が見込めるであろう。







摂食障害という病気は、

個人個人の問題でもあり、

治癒には周囲の助力が大切なものでもある。


しかし、これに対しても

治っていくプロセスは人によって

違うのであるから、

誰の力も借りず

治せる人も中にはいるであろう。

けれども、治療している段階で、

私は母という存在があるから

頑張って治そうと想えるのであるし、

母との関係をより良いものへと

築いていきたいとも考える。

もしも、妹達と暮らしていた頃の

家族関係のままであったら、

私は絶望感に覆われて

何度も自殺を試みたであろう。

そして今、生きていなかったかも知れない。

「苦しく辛い状況がずっとずっといつまでも

 続く訳ではない。」


と仰ったカウンセラーの言葉が

本物であったとしみじみ感じている。

また、摂食障害を罹患している人は

この世界に何百万人・・・否、それ以上

いるかもしれない。だが、

この摂食障害は個々の問題である部分も大きい。

なのでファシズムの世界ではないのであるから

まだ治療中である人のこころを

全く慮っていない克服者の浅慮な言葉に

惑わされる必要は全く無い。

自分は自分なりの治療法を

見出していく事こそが

重要であると、私は想う。

ナイーヴな問題である、病気の事なのに

その症状に苦しむ状況を難詰する人の

気が知れない。

そういった言葉を聞いたり見たり

した場合は、眼中に置かない事

または無視するのが得策であろう。

病人にだって、人格はある。

そして病気である限り、健康を望む。

だから、諦めない事が大切だと想う。







私の場合、病を患ったのは

生きてきた環境も要因の1つである。

親からの虐待、無視、邪険に扱われる事。

子どもの頃はこれが日常茶飯事であった。

今なら、この過去を徹底的に否定できる。

あれは、決して躾ではなかったと。

“躾”という字は、身に美しいと書く。

礼儀作法を子どもに身に付けさせる為に、

暴力など必要ない。

この経験があったからこそ、

「いたわるとはどういう事か。」

という考えが、無限に浮かんでくる。

暴力によって抑え付けられた

幼少時代から思春期にかけて

その経緯の中で私は卑屈になった。

自分は卑小で卑劣で浅ましい人間だと

そう想わざるを得ない環境の中にいた。

その卑屈さが、病気を呼んだと言っても

過言ではないであろう。

本来の自分は、硬い殻に閉じ込められ

自由度を失っていた。

そこで、主治医が仰ったのは、

「環境がもたらした病理性を跳ね返すのは

 本来の生命力なんだよ。

 それは、あなたやお母さんの生命の力だよ。」


という事である。

私だけでなく、母も同じ時期に

父を始め父方の親戚には

酷い苛虐を受けていた。

こころの自由度は奪われ、子どもが

その人たちの前で粗相をしないよう

暴力を以って躾けるしか術は

無かったのであろう。

子どもながらに、時々

「それは機嫌が悪い為の

 八つ当たりなのではないか。」

と想う事もあったが、

そんな事言い返せる筈も無い。

過去のことを正確に受け止め、否定する事。

否定といっても、消極的な行為ではない。

寧ろ、積極的に否定するのである。

そうする事で、新たな生命の力が

生まれ出るかも知れない。








病気の症状を、“あって然るべきもの”として

受け止めて対応する事。

ただ、病症に流されているだけに

外側からは見えるかもしれないが、

本人は内側で様々な想いを抱き

葛藤しながらも

積極的な対応を試みているのである。

またこれが難しいのであるが、

そこに大切なのはやはり、

フレキシブルである事と、

臨機応変に対処する事であろう。

こころの柔軟性にかけている私には

難題であるが、

いつか胸に抱えている

硬い殻に閉じ込められた

“何事にも束縛され過ぎていない自由さ”

というものが溢れた際、

私のこころは広がって

成長するかも知れないと

小さく淡い期待を抱いている。

ただ、その硬い殻は

きっと一筋縄で砕けるものではないだろう。

時間はかかっても良い。

いつか病が治る為に、

少しずつ比較的柔らかい部分から

砕いていこうと想っている。







スーパーで流れる音楽は、

クリスマス特集みたいなものになっている。

聖歌がアレンジされたものや

サンタクロースについてのものが

延々と流れている。

リカーショップへ行ったら、

入り口の所に小さなツリーがあった。

可愛らしく飾り付けられてあった。

12月半ばになれば、近所の歯科では

家の壁に張り巡らせたイルミネーションの

電球が瞬くのであろう。

12月は、本当にあっという間に

過ぎ行く月である。

月末には、祖父母の家でお餅つきが待っている。

その時までにはもう少し

体力を付けておきたいものである。

病気を患ってしまったばかりに

降り注ぐ浅慮である言葉には

耳を塞ぎ、治療の為に有効な

専門家・・・つまり主治医の言葉に耳を傾け

こころを成長させたいものである。

いつ治るかなんて分からない病であるが、

これが今、私にとって生きる為の杖であるなら

次の健康的な杖が見つかるまで

深く考えを巡らせて

決して小さな人間にはならないよう

目標を持って、生きていきたいものである。





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Last updated  2007.12.01 22:15:47
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