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2007.12.11
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しとしと降る雨に、辺りが潤い

雨音を聞きながら読書をしていたら

気分が落ち着いた。

朝方4時過ぎの事である。







1時間ほど読書をした後、

いつものように自室で

ぼんやり朝のニュースを観ていた。

じっとTV画面を眺めるのも疲れるので

また本を読み始めたら、

止まらなくなってしまった。

また1時間本を読んだ後、

『ガリレオ』を観ようと想った。

しかし、“前編”と

タイトルにあったので

“後編”が放送されたら

まとめて観ることに決めた。

前編と後編で分かれていると、

1週間ずっと待ち遠しくて、

それがまた苛立ちに繋がる可能性も

考えたからである。

なので、『おしゃれイズム』を観て

時間を潰した。






相変わらず、こころの中は混沌としている。

何をしても虚しくて、

無力感が物凄い勢いで

迫ってきていて

それから脱け出す行為に走る。

だが、後に残るのは

やはり漠然とした不安と

空虚な想いである。







摂食障害を患っている人の多くは、

“コントロールする事”

に考えが傾きがちである。

またそれは、

「成長しなければならない。」

といった強迫観念になっていく。

主治医との診察の中で、

〔この“成長モデル”は、それが実現出来ない時、

 自己否定に繋がりもっと病気を重くする。〕


という事が分かった。

“成長モデル”とは、克服を目指し

次のステップに進まねばならないといった

ものであろう。

だが、この考え方は

摂食障害を病気として見做していない。

病気なのに、成長を目指すなんて

無茶な事である。


成長する事ばかり念頭に置いていたら、

叶わない事に不安を覚え、

病状は悪化して疲れていくであろう。

私は疲れると抑うつ感が酷くなる。

主治医の“成長モデル”という言葉に

色々と気付くことがあった。







病気である事を認めても、“悪いもの”

つまり“病”を退治するという

イメージは、間違っていると考える。


例えば、感染症などで

ウィルスに感染したら、

身体はそれに抵抗し、闘う。

そうして敵対していると、闘いはどんどん

苛烈なものへと変わっていく。

ウィルスを摂食障害と入れ替えても

同じ事である。

しかしウィルスは、闘っても

宿った母体を殺してしまったら即ち

自らの死をも意味しているので、

共存しようとする方向へ転換する事もある。

もう1つの例え話では、

森やジャングルに住む動物達

全てが敵対して殺しあっていたら、

やがて動物達は絶滅するというものであった。

だから、どこかで共存する術を

見出している。

これらは主治医の受け売りであるが、

深く納得した事である。

【闘う】という事は、人間も動物である限り

本能として備わっているものである。

だから、病気とも闘う。

完全な無力は即ち死を意味する。

無力感は、耐え難いものである。


だから、抵抗して病症が

現れるのであろう。







主治医の言葉でこころに刻まれたのは、

「治すじゃなくて治るだよ。」

という言葉であった。

“治す”という言葉には

“成長イメージ”がある。

だが、ただ座して“治る”のを待つのは難しい。

目標を立ててしまうと、

目標を成し遂げられなかった時、

病気は悪化して立ち直るのが苦しいものと

なるであろう。

だから、適切な目標

考える必要がある。

主治医と私とで考えたのは、

【些細な事、様々な事を感じる事が本質的に大事】

という事である。

冬の、空気の冷たさを感じたり、

この季節特有の月光を見上げて美しいと想ったり

朝の空気と夜の空気が違う事を

感じたりする事。

そういった、身近な所から

実現可能な小さな目標・・・つまり

この場合、“自然を感じる”という事を

積極的に行なえば良いのではないかと考えた。

無闇に高い目標・・・つまり

“努力目標”を立てると、

叶えられなかった際、酷く傷付く。

そして自己否定が強くなるであろう。

だから、主治医曰く

取り戻す時間を生み出す

“回復モデル”が大切なのである。


という事である。

それは、子どもの頃に甘えたい時期

甘えられなかった時間を取り戻したり、

“こころをいたわる時間”を

大切にしたりする事だと考える。

成長する事ばかりが目標ではない。

こころを豊かにする事こそ、

本当に大切ではないであろうか。

それによって、こころはゆとりを持ち

縦横無尽に広がっていく。

こういったプロセスの中で、

病気は“治る”のであろう。








他に主治医から伺った言葉で、

“病気モデル”

というものがあった。

これは、

【症状を取り除くもの】

であり、論外であると仰った。

過食と嘔吐といった症状は、

今の私にとって生きる杖である。

2本足で歩く事ができるほど、

私は回復していない。

だから、“成長モデル”や“病気モデル”よりも

“回復モデル” “取り戻しモデル”

こそ大切にするべきである。

私にとってのそれは、

怪我をした時に母が手当てをしてくれたり、

辛い想いを抱いている時

優しく抱き締めてくれたりする事である。

子どもの頃は、それが無かった。

風邪を引いて高熱を出したら、

「病院に行かないかんやんか。何で熱なんか出すんよ。」

と苦しんでいる私を叱った。

今は、全く違う。

まるで、過去に得られなかった愛情を

取り戻すように私と母は

良い関係を築き上げている。







私は、氷を砕く時に

よく誤ってアイスピックで指を刺す。

尖端が逸れてしまうと、切り傷になる。

母はその傷を発見すると、

「傷、消毒した?絆創膏貼ったげようか?」

という。

一昨日は同じ所を突いてしまって

指の皮膚が抉れてしまったけれど

放っておいた。

こんな傷、リストカットをしていた頃と

比べると何でもないと想ったからである。

だが母は、目敏く見つけ、

丁寧に絆創膏を巻きつけてくれた。

子どもの頃は、全て自分でやっていた。

幼い頃の私は、外で遊ぶのが大好きで

生傷の絶えない日々だったから

自分で消毒して、絆創膏を貼った。

母は、傷に気付かなかった。

過去、得られなかった愛情を“取り戻す”ように

遡って様々な体験をしている。


主治医は、これが不可思議であるけれど、

それこそ病気が治るプロセスかも知れないと

仰っていた。

“回復モデル”と“取り戻しモデル”

というものをもっと考えていきたいものである。







成長するという事自体は、悪いものではない。

目標意識を持って、それを目指す事も同じく、悪くない。

けれども、病気が治る前にそれらの

高い目標を立てて叶えられなかった時の

衝撃はかなり大きいものとなる。

そして自己否定や自己嫌悪が一層酷くなる。

私はどうしてこんなに毎日疲れているのか

やっと気付けた。

「成長したい」「目標を持って生きたい」と

高望みし過ぎていたからである。

だが、今日電話診察を受診した際、

この考えは、病気を悪化させるだけだと

諭され、納得した。

目標は、【大きな目標を立てない事】で良い。

身近にある自然を身体全体で感じたり、

雨音を楽しんだり、花屋で可愛い花を見て

こころが潤ったら、それで充分である。

成長しろだなんて、誰にも強制されている

事でもないし、そうしなければならない

義務も義理も無い。

病気が治ること。これが最終目標であり

今はまだ遠い所にある。

目の前にある沢山の問題から

対処しなければならない。

過食・嘔吐といった症状は、

今の私にとって必要だから

それを無理矢理引き剥がすという行為は

愚かな事である。

無論、過食と嘔吐の苦しみや辛さは

耐え難いものであるが、

それによって、私は漸く生きる事ができている

状態である。

何れにせよ、“成長モデル”の観念は捨てて

“取り戻しモデル”を鑑みて

実行に移したいものである。


そして雑音は無視。それがポリシー。





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Last updated  2007.12.12 06:24:30
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