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カテゴリ:想い
身を切るような冷たい風が
吹き荒んでいた早朝。 朝の空気はとても心地好く 深呼吸を繰り返した。 やはり朝の空気や風は 私の周りに淀んでしまった 想いや悩みを一掃してくれる。 4時過ぎに目覚めた私は、 可燃ごみを纏めて ゴミ捨て場に置いてきた。 遠くに見える国道を見たら 信号が赤だった。 まだ暗い朝にその赤色が やけに映えていて 美しさを感じた。 ぼんやりと空を仰ぐと、 雨雲が蔓延っていた。 寝室に戻り、またお蒲団に 潜り込んだ途端に 雨がざあっと降り始めた。 愚図ついたお天気もまた、 何の変哲もない私の生活に “揺らぎ”をもたらす。 “揺れ”があるから、こころも豊かになる。 こころが、思念が、 がちがちに固まって 揺れなくなってしまったら、 こころは広がらなくなる。 固定観念。固執した価値観。狭いこころ。 これらは、きっと病気が治るのを 邪魔するものとなるであろう。 摂食障害で、過食と嘔吐という 症状だけに焦点を合わせ、 それだけに拘っていたら ただ、疲弊してしまうだけである。 毎日過食と嘔吐を繰り返す自分を責め、 止められない自分を情けなく感じ、 段々と生きていくのが厭になる。 これでは、底なし沼で足掻き苦しむという 繰り返しの毎日となってしまう。 それよりも、もっと考えるべき事は 沢山ある筈である。 「何故、私はこんなにも生きるのが苦しいのか。」 「苦しくて辛い症状でも、その行為が何故生きる杖なのか。」 「過去を振り返り、今に至るまでどういう気持ちの動きがあったか。」 等、もっと沢山あるけれど、 拒食や過食、嘔吐といった行為だけに 執着して考えているばかりでは 前に進もうにも進めない気がする。 これは全て、いつもの事である。 早朝に起きて読書をしたり、 その流れで録画しておいたバラエティ番組や ドラマ、映画を観たりする。 口寂しくなって食べ始め、 それが過食に繋がっていく。 一連の行為を終えたら、眠剤を服用して ぐっすりと眠る。 毎日同じ繰り返し、いつもやっている事であるが、 そこにも日々分からないくらいの変化はある。 “揺れ”に関しても、 ぐらんぐらんと揺さぶられる出来事が 日常で起こったかと想えば、 ふっと息を吹きかけられた程度の 揺さぶりで終わる事もある。 そうした毎日の繰り返しを積み重ね、 やがてこころの形も変容して いくのかも知れない。 勿論、いつもいつも 心が豊かになる状態にある という訳ではない。 辛さや苦しさを感じ、生き辛さを 目の当たりにすると 私は自分の殻に閉じ篭ってしまう。 抑うつ感が酷くなればなるほど、 身体は重くなり、言葉を発する事さえ 億劫になり寡黙になる。 だが、「こころが豊かにならなければならない」という 義務や義理はどこにもない。 一旦こころを休ませて、何も考えず ぼんやりする時間も大切である。 いつもいつも張り切っていたら、 電池が切れてしまうであろう。 意識はしていなくても、いつの間にか こころの幅が広がっているというのが、 【こころが豊かになる】 という事なのだと考える。 それは、意識してそうなるものでもないし、 自然を感じたり、小さな事を大切に想えたりする事で 少しずつ、こころの幅が広がっていくものであろう。 1年前と比べたら、少しは違っている自分に 気付けたなら、それで良いと想う。 主治医にずばりと指摘された事がある。 私には、“こうあるべき”といった家族像の 観念が染み付いているという事である。 それは、 家族、みんな仲良く暮らし、 隠し事や嘘偽りがない事。 家族とは安心して暮らせる家庭を築ける 関係にあって、偶に諍いはあっても 最後には笑顔で溢れる姿。 といった所であろうか。 だが、主治医が仰るには 「家族というものにそんな“モデル”なんてない。 理想を追いかけるのではなく、各々が 築いていくもの。」 という事であった。 確かに私は、理想の家族像に執着していた。 隠し事をされたら、 「家族なのに何故・・・。」 と感じて哀しく想った。 けれども、家族とはいえども人格は違う人間である。 何もかも包み隠さず話していたら、 それこそ諍いが耐えなくなってしまうであろう。 完璧な人間などいない。 私なんて、欠陥だらけの人間である。 そんな私が理想を振りかざした所で 何かが上手くいくとは想えない。 何事にも、“バランス”というものが 大切なのであろう。 病気は、“プロセス”を辿り、治るものである。 治すのではない。治るのである。 「治すもの」 と言い切ってしまうと、自分を追い込み 失敗する度に受けるダメージは大きい。 だから、 【大切なプロセスを踏んで治る】 という事を前提とすれば、 現在自分がやっている 生き抜くために努力している事は 決して無駄ではないと捉えられる。 それに、努力をするには物凄く力を要する。 うつ病であるため、頑張りたくても頑張れない。 休養するというのは、傍から見たら 「怠けている」と捉えられるかも知れないが、 これは積極的行為なのである。 社会は毎日絶えず動いているのに、 それに参加できず、ただ休養するしかない という状態は、本当に苦しいのである。 申し訳ない気持ちで一杯になって 「何かしなければ」 といった強迫観念に取り憑かれる。 そこを堪えて、静養する事により 次に行動を起こすパワーを蓄えられる。 だから、医者はこころの病、脳の病を 患った人に対して 休養を促し、養生する事を勧めるのである。 それは、身体の病でも同じ事であり、 風邪を引いて熱が出ているのに 「働け、動け、頑張れ、熱を下げて咳を止めろ」 なんていう人でなしは余りいない。 普通は、養生する事を促す。 風邪も、治すのではなく、治るものである。 そういった考えを持ちながら、 自分が抱えている様々な病と共に 生きる術を考慮する必要がある。 木枯らしの冷たさから守ってくれたのは、 母がプレゼントしてくれた赤いマフラーだった。 夜になると、もう雨は上がっていて 暗い空には白い雲が悠然と流れていた。 首周りが温かいと、身体も冷えないので 落ち着いて買い物をする事ができた。 しかし、不意に酷い胃痛が襲ってきて 参ってしまった。 だが、ホットココアをゆっくり飲むと 少しだけ痛みは和らいだ。 母が傍にいてくれたから、痛みもすぐ 何処かへ飛んで行ってくれたのかも知れない。 1人で痛みに耐えるのは酷く辛いが、 母がいてくれたから、安心できたのであろう。 私が小学生の頃、ストレス性胃炎を患い 毎日痛みに七転八倒していたけれど こうした温かさをくれる大人はいなかった。 母は離婚に向けて準備していたので 自身の事で精一杯だったのだと 今考えると納得できる。 それは、本当に仕方ない事である。 だからその時、心配されなかった苦しみを今、 思い遣りを注いでくれる母の存在が 尊いと想う。母は、決してそれを意識していない。 自然に苦しんでいる娘を目の前にして 心配して色々と手当てしてくれているのである。 そのナチュラルさが嬉しい。 何れにせよ、ゆっくりと物事は進むものである。 焦っても仕方が無い。 自分なりのプロセスを踏んで 自分なりのペースで歩みたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.13 22:22:54
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