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カテゴリ:抑うつ感
時間が、流れていく。
それは不可抗力であるから 時間の波に乗れない私は、 ただ流れていく様を 呆然と眺めているだけである。 眠っていても、夢の中で 確実に 時間を刻んでいる。 お蒲団から出るのが 厳しくなってきた。 もうスーパーに買い物なんて 行かなくていいから このままずっと ぬくぬくお蒲団の中で、身体を 横たえていたいと願ってしまう。 過食と嘔吐で酷使した身体と 考えて考え過ぎてショートを起こしそうな 脳やこころを休ませたいと想う。 だが、何よりも 食べ物が無いという事は、不安である。 だから私はもぞもぞと起き上がり、 エアコンをつけて シャワーを浴びるのである。 突然襲ってくる抑うつ感と苛々。 私は為す術もなく、それを受け止める。 原因を突き詰めるのも 何だか億劫なのでそのままにしていたら、 どんどん苛々した気持ちが膨らんだ。 この気持ちはまるで、むずかる赤児のようである。 今から考えると、低血糖状態であったり 空腹感が増してきたりしたから 苛々していたのかも知れない。 スーパー内で、暴れたらどうなるだろう という妄想が膨らんだ。危ない。 マイナス思考が膨張してきて 張り裂けそうになっていた。 「もう、食べたり吐いたりしたくない。」 という想いと、 「でも食べ物を買っておかないと不安だ。」 という2つの想いが拮抗していたのであろう。 それが両極端なものなので、 苛々してしまったのかも知れない。 だが、母と落ち合ってからは大分落ち着いた。 他愛ない話をして笑っていると、 あれだけむずかっていた私の中の赤児は 鳴りを潜めた。 【孤独感】 これを感じていると、 不安になり、内に潜む赤児が不機嫌になる。 むずかって泣くのは 未発達の領域にいる私である。 この領域に在る私について考えるのは、 もう少し先になるであろう。 気分の波が、激しい。 上がったり、下がったり 高まったり、低まったりと 落ち着かない。 上がれば下がるという事は 抑うつ状態を毎日経験してきて 分かっている事であるが、 慣れる事は難しい。 私の気分が上がるのは大抵、 ありさちゃんの事を考える時である。 昨日はスーパーで彼女が表紙に なっている雑誌を購入した。 最後の1冊だったので迷わずに。 「あ~、ありちゃんは可愛いなあ。」 とこころで呟く。 私は観月ありささんの事を “ありちゃん”と呼ぶ。 CMで見かける度に フルネームで呼んで喜ぶには 長いので、いつの間にか “ありちゃん”と呼ぶようになっていた。 実際、彼女の沢山いる友人達は 彼女の事を“ありちゃん”と 呼んでいる。神田うのちゃんも、 “ありちゃん”と呼んで慕っているのを ブログを読んで知った。 その雑誌には、『吉原炎上』の撮影風景が 掲載されていた。 顔は殆どノーメイクで首から 白塗りされている彼女は、 びしっとメイクをしている時よりも 儚げで少女のように可愛かった。 多分、その可愛い彼女を見て テンションが上がってしまったのであろう。 眠剤を服用した後だったのに 中々寝付けなかった。 気分が落ちていくのを感じると、 「何か食べたい。甘いものが食べたい。」 という想いが湧いてきたけれど、 「もうお薬を飲んだ後だから苦しいぞ。」 と自分に何度も言い聞かせている内に 眠っていたようである。 私にとって、“観月ありさ”という存在は、 小学生の頃から私のこころを 救ってきてくれた女神のようなものである。 かなり大袈裟な表現になるけれど、 これは主治医も認めている事である。 きっと私が死なない理由の1つに、 これからも彼女の活躍を見たいという 気持ちが存在するからであろう。 言わずもがな、私が今生きているのは、 母が生きているからである。 ただ、“観月ありさ”という存在に 出会っていなかったら もしかしたら私は 今生きていなかったかも知れない。 何故、過食と嘔吐が必要なのか。 この摂食障害の症状は、 物凄く苦しいものであるし、 身体もぼろぼろになっていく。 精神的にも脆弱な部分が剥き出しになる。 それでも、食べている間は落ち着いている事や 身体の中にある食べ物を 全て出し切る事によって こころに溜まったどす黒い感情が共に 出て行ったような感覚を得られる事は 否めない。 生きていく為には、食べねばならない。 命を繋ぐ為に、【食べる】という行為は 決して切り離せない。 私は、其処に障害を持っている。 つまり、病気である。 先ず、摂食障害は病気であるという事から認めねばならない。 だから、無理矢理高い目標を立てたり 努力をして頑張ろうとするのは、 病人のする事ではないと言える。 無論、病気に甘えて何もかも 適当に、なあなあという感じで やっていくのは褒められたものではない。 開き直るのは、個人の自由である。 けれども、病気である事を受け容れ、 “治る”為にはどう生きるべきか という事を考えるべきであろう。 お薬を服用すれば、病院で診察を受ければ 治る病気ではない。 だから、今、【病と共に如何に生きるか】という事を 改めて考え直したい。 私が出来る一番簡単な事は、 「無理をしない事」 「抗わない事」 という事が、先ず挙げられる。 身体がぐったりと疲れ果て、 それでも過食をしたいと想っても、 こころと身体のSOSを聞きいれ 無理をしないために、その行為に走らない事。 逆に、どんなに苦しくても 無力感という途方も無いものから 脱け出す為の過食や嘔吐を避けられない 状況を無視しないで 甘受する事も大切である。 抗わない事で挙げられるのは、 眠剤を服用した後、そのお薬の力に 任せてゆったり眠る事である。 お薬が効いてきているのに、 落ち着かないからと活動を始めたら 元も子もない。 身体やこころが「しんどい」と 感じたら、素直に身体を横たえ 休む事。これも大切である。 もしも風邪を患ったら、水分を補給して 身体に優しいお粥などを摂取し ゆっくり身体を休める。 そうする事で、風邪は“治る”のである。 こころの病も、先ずは 【こころと身体を休める】 という事から始まるのではないかと考える。 言うまでもなく、これは私個人の考えであり、 自分に合った病が治るプロセスだと 想っているのである。 摂食障害やその病気を患っている人の事を 病気扱いせず、ただの甘えだと言い、 その症状で悩んでいる人を 平気で国のゴミ扱いする人もいる。 アメリカだけでも800万人以上も 摂食障害の患者がいる。 日本ではその半分くらいの罹患者は いるのではないかと想像する。 それほど身近な病であるが、 やはりうつ病よりも特殊な症状が ある為に、 「甘えているだけ。情けない。治す気がないだけ。」 と容易く批判する人は絶えない。 摂食障害を患っていた人でさえ そういった批判を 今どうしようもなく苦しんでいる 何百万人の人たちに対して そう言えるのだから、余程その人は 凄い人なのであろう。 (これは皮肉であるが。) けれども、そういった傾向が大きくなると、 こころが蔑ろにされる。 これだけは、とても哀しい事だと感じる。 結局、【こころを大事にする事】が 肝心なのであろう。 自分のこころを大事に出来ない人は、 他人のこころを慮る事が難しい。 自分がされて厭な事を平気で人に出来たり 言葉にしたりする人は、 自分が優越感に浸ってに過ごせれば良い という考えでいるのであろう。 だから心配りを欠かさず、人の思いを汲み取って 相手の立場と近い位置に立って 物事を考えられる人は素晴らしいと想う。 私は難しくて到底出来ないであろう。 でも、心配りは出来る。 ただ、身近な母に対してという所から 始まっている事であるが。 今の社会は、人間をただの歯車としか 捉えていなくて、こころは蔑ろにされている。 そんな中で、如何に生きていくか。 健康に生きていく為には何が必要か。 それらを考えていくのは、決して無駄ではない。 人のこころを傷つけない事。 自分のこころも蔑ろにしない事。 小さな事から、始めたいと想う。 私の中にはまだ、むずかる赤児が いつもいつも存在している。 泣いている。 そういった自分をあやしつつ こころを大切にしていける生き方を 模索したいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.15 22:37:23
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