|
カテゴリ:抑うつ感
ずぶずぶと、 こころが沈みゆくのを 感じていた。 何をしても裏目に出て 失敗する。 物事が上手くいかないと すぐヒステリックになる。 自分で自分が分からなくなった。 病気は、一進一退を繰り返す。 今は正に【退いている】状態である。 母との意思疎通がスムースに出来ない事が、 こころに暗い影を落としていた。 漠然とした不安感がどんどん膨張して 今にも張り裂けそうで、 それを回避する為に 私は只管食べていた。 こころの不調はすぐ、病症として出る。 病状が後退した事で、母への甘え方が 分からなくなってきた。 その兆候は、母が風邪を引いた頃から 表れていた。 「母さんは今、辛いんだから負担になってはいけない。」 「迷惑を掛けてはいけない。」 そう想って、距離を置いていたら 変に余所余所しくなってしまった。 母もそれを感じたようで、 だからこそ苛立ちを感じたのであろう。 大切なのは、 「~~をしてはいけない」と考えるのではなく、 【いたわりのこころを持つ】という事である。 私はそれを失念していた。 また、どうする事が 【いたわる事】なのかも よく掴めなくて戸惑っていたのも事実である。 そして益々、母との距離が微妙で 余り穏やかではなくなっていった。 私は弱り、困り果て 自分の情けない部分にも腹が立ち、 過食と嘔吐の回数が、増えた。 そして、リストカットをした。 もうリストカットしか、自分を宥める術はなかった。 ただ、鈍な剃刀だったので 表皮が少し切れただけで出血は少なかった。 回復しつつあった自分と、 後退した自分のこころが ぶれている。 手首の傷を見てそう想った。 今まで母と他愛ない話をして 笑い合い、頑張っていこうかなと考えられた。 でも、もう無理だと想ってしまった。 現在、冷静に考えれば、 「また時間を掛けて、そのこころを取り戻せばいいさ」 と捉えられるけれど、 夜中の私は完全に折れていた。 生きていく気も失せた状態だった。 だけど、手首を傷つけた事により、 何かが戻ってきた感じはした。 何かは分からない。 ただそれが、途轍もなく大きな無力感から 脱け出す為の手段だったという事は 何となく分かる。 祖母からの、クリスマスケーキが届けられた。 しかし私が寝ている時間に 配達員さんが来たようで、 しかも電話が掛かってきていた事にも 気付かなかった。 だから祖母の所に連絡が行き、 私の携帯に電話を掛けてきた祖母に 怒られてしまった。 いつまで眠っているのかと、 起きられないほど怠けているのかと。 祖母もうつ病を患っていたが、 自力で治した人である。 うつ病を患っていた頃の話を聞いた事がある。 その頃は、毎日 「死ななければならない。」 と考えていたそうである。 もう母も母の妹も生まれていたが まだ高校生、小学生だった。 祖父は船乗りだったので、3ヶ月に1回 若しくは半年に1回位しか 日本に戻ってこない。 日本に帰ってくる時、その港まで 祖母は船で行くのだが、 何度も甲板の上で 「此処から海に飛び降りねばならない。」 という想いに取り憑かれていた。 やがて、肝臓を壊して入院して うつ病も悪化した。 だが或る日、祖母は沢山のお薬を 服用する事に疑念を抱いた。 自分から、病気を治さねばならないと 考えたのであろう。 大正生まれの祖母。とても気が強い祖母。 それを上回るほど、人に優しい祖母。 一念発起してお薬を全て棄てて 主治医に 「先生、私退院します。病気はもう治るはずです。大丈夫です。」 と宣言したそうである。すると主治医も 「あなたにその覚悟があるのなら、もう大丈夫。退院していいですよ。」 という事になり、本当に回復したのである。 ただ、全て自力というわけではない。 祖母は体操の先生をしている。 それは東洋医学に基づいた、 あらゆる身体の不調を治す体操である。 最初の内は、祖母の身体は硬く、 痛くて堪らなかったらしいが 師範の資格を取る頃になると、 バレリーナ顔負けの、身体の柔軟さを持ち 健康な身体とこころを取り戻したのである。 そんな祖母から見れば、 私の姿は情けないと想うのであろう。 今の私は、祖母が船から海に飛び込もうと 考えたり、毎日死ぬ事を考えていたり していた状態と同じである。 其処から脱け出せない私を見ると、 どうにかしてやりたいという祖母の優しさが “厳しさ”となっているのだと感じる。 私も少しは、祖母の良い所を見習いたい。 母の体調が回復するにつれて、 私との関係もまた良くなりつつある事に気付いた。 余所余所しかったこの数日間は 近寄る事も苦しかった。 傍を通るだけで 「ごめんね。」 という言葉が出ていた。 でも今日は少しずつ、 それまでの「ごめんね」が 「ありがとう」になっていった。 クリスマスイヴなので、 母はチキンを焼いていた。 一緒に食べられない事が申し訳ないと 想ったけれど、一応ビールで乾杯だけはした。 そして、現在気になっている ホルモンの種類が多様な 焼肉屋さんをネットで調べて、 メニューを一緒に見て、楽しんだ。 そして来年、新年会として 2人で行こうという事になった。 母が近くにいても、全然違和感はなくて 寧ろ嬉しい気持ちになった。 余所余所しさ。こころの揺れ。それは1人だけで 起こっている事ではなく、母と私という 2人で起きた事だったから、 余り穏やかでない雰囲気になり そんな空気が流れたのであろう。 たとえ血が繋がっていても、 相手との距離感を考えるのは難しいものである。 そしてこころが揺れていると やはり病症が酷くなったり 生きることに苦しみを感じたりする。 堕ちる所まで堕ちていくけれど、 堕ちきったら後は這い上がるだけである。 そのための力を今、 蓄えているのであろう。 生きているだけで幸せだと、 本当はそう感謝せねばならない事は分かっている。 けれども生きるというのは辛苦を伴うもので 如何に乗り越えていくか頭を働かせ体感していく事も 勉強となっていくと考える。 ただ、甘い夢はもう見ない。 本当に、何を私は浮かれていたのかと 不思議で仕方が無い。 残された道は“死”だけなのであるから。 その“死”が訪れるまで 生きていく道を模索するのが、課題である。 勿論病気が治る事を望むし、 そのために生きたいと想う。 偶に、嬉しさや楽しみ、幸せを感じる事は あるかも知れない。 でもそれで決して調子に乗らないよう 気を付けて過ごしたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.24 23:20:42
[抑うつ感] カテゴリの最新記事
|