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2008.01.03
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カテゴリ:想い

寒いからといって

エアコンを付けたまま眠ると、

喉がからからに渇いてしまう。

そして肌はかさかさに乾燥している。

お蒲団は最初冷たいから、

ドライヤーを強風にして暫く

吹かせて足元を温める。

それで漸く、私は落ち着く。







夕方、雨が降ったみたいであったが、

夜には止み、夜空には星が瞬いていた。

昨日までは空を見上げる余裕はなかったが

今日は大分、こころが

落ち着いているようだった。







昨日の続きになるが、1つ想い出話が出ると、

するすると様々な想い出が甦る。


祖母が生まれ育った北海道の話や

その祖母が子どもの頃の話は

とても興味深かった。

勿論、母が子どもの頃の話も聞いたし、

私が覚えていない幼少期の特徴を

教えてくれた。

祖母は北海道でも

室蘭で生まれ育った。北海道でも

南の方である為、積雪は少なかったが

物凄く寒かったという。

海が近いので、【豆腐売り】みたいな感じで

魚介類を売り歩く商売があったそうである。

多種の魚は勿論、雲丹や鮑等の

今となっては高級食材も

安く売られていたらしい。

だから、祖母の家庭ではいつも

食卓に鮭や貝類、雲丹などは

いつも上っていたそうである。

また、祖母は鮭の皮が苦手だったので、

2人いる兄と、鮭の身と皮を

交換してもらっていたそうである。

祖母は末っ子でたった1人の女の子

だったから甘えるのも上手だし

けれども今では1人で何でも

しゃきしゃきこなす体操の先生であり、

80代のキャリアウーマンである。







船乗りをしていた祖父。北海道の彼女である祖母の他に、

沖縄の娘とも付き合っていたことがあるという。


確か、しーちゃんと言っていた。

それは祖母も承知していた。

昔のアルバムで祖父の若い頃の写真を見ると、

今の感覚でも物凄い男前なのである。

日本人離れした、足の長いスタイル。

高い鼻と大きな目といった彫りの深い顔。

だから、昨日記した軍歌の他に、

「沖縄の娘は~~」みたいな曲も

唄っていた。







船乗りは、下働きから始まる。

だから、掃除・洗濯・料理はお手の物である。

祖父は、料理に関して

認知症になる前は祖母よりも上手であった。

おせち料理の栗きんとんも、秋に栗を茹でて

冷凍保存しておき、普通は薩摩芋を混ぜるが

祖父は栗だけで何時間もかけて

大晦日に栗だけの栗きんとんを作った。

それがまた物凄く美味しかった。

私が子どもの頃は、祖父母の家へ泊まりに行くのが

とても楽しみだったので

月に2回くらいは行っていたが、

出てくるおかずの殆どは祖父の手作りだった。

そして

「これ、美味しいやろう。じいちゃんが作ったんぞ。」

と得意気だったし、本当に美味しかった。

私がまだ病気になる1年位前、

祖母が出掛けている時、共に昼食を

食べる機会があった。

祖父は手早く、ピーマン・玉葱・人参・ウィンナーの

入ったナポリタンを作った。

それがまた本当に美味しくて

私はお代わりをした程である。

祖父は、スプーンとフォークを駆使して

くるくるとパスタをフォークに巻きつけ

音を立てず食べていた。

「スパゲッティーは音を立てずに食べるもんぞ。」

という言葉と共に。

余りにもしっかりとした祖父の想い出があるから、

現在、湯飲みとお茶碗の区別がつかなくなって

湯飲みにご飯をよそってしまう祖父を見ると

胸が締め付けられて涙が出てしまう。


ただ、私の名前こそ間違うものの、

顔はちゃんと覚えてくれているのは嬉しい。

名前を間違えるのは、妹夫婦の子どもに

似た名前の子がいるからである。

1字違いで、その子の方が呼びやすいので

祖母も間違ってしまうのだから仕方が無い。

しっかりしていて、誇り高くプライドも高かった祖父。

認知症という症状の残酷さ。哀しさ。

今でも祖父はプライドを保っていて

祖母を困らせている部分もあるが

ギャップが、こころを締め付ける。


前回会った時には、軍歌を唄う事は無かった。

だが今は、頻繁に唄っているという事も、

坂道を下っていると言う証拠である。

私に出来る事は何もない。

けれども、祖父母は私の顔を見ると喜んでくれる。

だから今年こそは、頻繁に祖父母の元へ行きたい。

これを今年の目標の1つとしたい。


飽く迄も、目標である。体調とこころの調子を

鑑みて、実行に移せたらと考える。







姪っ子と朝から夜までいたら、疲れてしまった。

勿論、姪っ子はとても可愛いし、大好きである。

けれども、私の母が厳しく私達を躾けたのとは

時代が違い、姪っ子は良く言えば

本能のままに動く活発な子どもであるが、

言うなれば我儘放題な子どもである。

気に入らない事があると、叫び声を上げるし、

やってはいけない事を注意をしても、聞かない。

これは、妹の彼氏が余りにも姪っ子を

甘やかし過ぎている事にも一因があるかも知れない。

妹は、どちらかと言えば厳しい面もあり、

悪い事をしたらペシッとおしりや頭を叩く。

だが、そうすると姪っ子はパパとなる

彼氏の元へ飛んでいき、甘えているのである。

その内私は、鍋の白菜や久し振りに食べるお肉、

茸類、くずきり、豆腐などを

過食の為だけに食べていて

嘔吐するまで必死だった。

その他にも、気まぐれで買ったお寿司や

祖母の家に沢山あった数の子や松前漬けなどを

黙々と食べ、全て吐いた。

過食と嘔吐はその1回で済んだが、

それによって低血糖症状を引き起こし、

身体が震えて気が遠くなっていた。

その中で聞こえる、姪っ子の金切り声。

私のこころがどんどん自分から離れていくのを感じた。

解離状態である。

どんなに疲れていても、症状が出ているから

眠ることも出来ない。

祖父はこの寒いのに突然外に出ようとするから

気が気ではなくて見守らねばならない。

祖母からは説教を受け、それを聞かねばならない。

だんだん、自分と言う人格がばらばらになっていった。







帰りの車の中、とうとう解離した。

今までは、自分を一歩後ろ所から

感じている感覚であったが、

今回は全く眠っていなかった事から、

5歩後ろから自分を見ていた。

もう、無理に戻ろうとしなかった。

頭を抱え、一切の音をシャットアウトして

目蓋を閉じた。

隣では、母が運転している妹に話しかけ

その反対の隣では弟が姪っ子の相手をしている。

私は声が出なかった。

夜、食べるものがないので

お正月でも開いているジャスコに寄った。

店に入るまでに、何故か母を見失った。

自分は何をしているのか、何処を歩いているのか、

自分とは一体何なのかが分からなかったが、

買う必要のあるものをカゴに入れていた。


そして漸く母と落ち合ったが、

私は視線が合わせられなかった。

何もかもがぼやけて見えて、頭ががんがんと痛み、

何故今、この場所にいるのか失念しかけていた。

レジにて精算をしてお金を払い、

商品を袋詰めしている間も、訳が分からなかった。

魂が、抜けた感じだった。

そして、家に帰り日中薬を服用した事で

漸く自分を取り戻したのである。

『相棒SP』と『はじめてのおつかい』の

録画準備をして、インスタントのお吸い物を飲んだら

身体が温まり、意識もはっきりとした。

『はじめてのおつかい』をPCで観ていたら、

子ども達の健気さに涙が溢れた。

祖父母の所で感じた事。私は涙を流したかったのに

流せなかったのである事に気付いた。


だから、その番組を観ていて

涙を流している自分を感じると

祖父母の事も想い出し、解離状態から

戻りつつある自分もあり、

落ち着けたのである。

2日にはたっぷり眠れたことで、

3日である今日はもう普段の自分に戻った。







想い出話は、初めて知る新鮮さ、そして想い出す懐かしさが

あるけれど、それらが現在という時間を

揺るがすほど、哀しみをもたらす事もある。

祖父が祖母よりもしっかりしていて元気だった頃を

想うと、切なさを通り過ぎて、哀しみが膨らむ。

でも、まだまだ想い出を作る事は可能である。

私は、その可能性を捨てたくない。

だから、祖父母や母が生きている限りは

私も生きていようと想っている。

時の流れに、身を任せて、ゆったりと。

でもいつか、病気は治る事を信じて。





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Last updated  2008.01.03 23:17:28
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