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カテゴリ:想い
1月4日・・・昨日は 妹の誕生日だった。 私は昨日の朝、おめでとうメールを送った。 返事は、デコメールで返ってきた。 それがまたキュートで可愛らしく、 メッセージも嬉しいものだった。 こうした大切なことを綴り忘れるなんて どれだけドジなんだろう。 想えば、大晦日に1年を振り返った時も、 夏に大阪へ母と2人、 観月ありささんの舞台を観に行った事も 綴り忘れていた。 あれだけ大きな出来事はなかったというのに。 本当、私はどこか抜けている。 コンスタントに睡眠時間をとれているので 徐々に落ち着きを取り戻しつつある。 それは自分1人の力ではなく、 一緒にいてくれる母の温かい心遣いが あるからこそ、ゆったりとした 想いで過ごせるようになってきているのだと 感じている。 とてもありがたい。 でも、何か小さな事に躓くと、 私はすぐ落ち込む。どんなに些細な、 普通の人なら笑って吹き飛ばせるような 厭な事や失敗でも、私はそれが自分の 駄目な部分を象徴しているのだと考え、 自らを貶める想いを持つのである。 考え過ぎである事は 承知しているし、それがマイナス思考へと 導いているのも分かっている。 だが、小さい頃から身に付いている 思考回路はそう簡単に変えられないものだと 痛感している。 小さい頃は、親に罵詈雑言を容赦なく浴びせられた。 特に父親の口汚さは酷かった。 母はすぐに怒りの沸点に達して、 激しく私を打擲した。 それは、私に鈍臭い部分があり、 不器用で物事を上手く運べない所が 大人にしてみれば苛立ったのであろう。 罵詈雑言を浴びる度、 「私は駄目な人間なんだ。」 「叩かれたり蹴られたりするのは当たり前なんだ。」 「私がこんなにも鈍臭くて不器用だから、怒られるんだ。」 「私は誰よりも劣っているんだ。」 という想いでいっぱいになり、 泣きながら打擲に耐えた。 しかし、それはもう【過去】である。 無論、それらの想いをこなして発散させる事は 出来ていない。パンドラの箱に仕舞われていて 偶にその蓋が開いた時、苦しくなる。 だが、どこかで【割り切る】という事も必要であろう。 それには【時間】というお薬が必須だと想う。 だから、焦らず時間をかけて 過去の自分と対峙したい。 妹は4日で24歳になった。年女である。 そして祖父は年男で今月84歳になる。 元日、久し振りに会った祖父は、 軍歌を歌うようになっていた。 1曲しか覚えていないらしいので それを何度も唄っていたが、 表情はとても柔らかく、そして楽しそうだった。 姪っ子も、普段聞き慣れている アニメ主題歌ではない曲なので 珍しく感じたようで、何故かノリノリであり 喜んで踊っていた。 その光景が脳裏に焼きついていて、 とても幸せそうだった印象がある。 妹は、姪っ子と祖父と共に携帯で 写真を撮っていた。 妹の携帯電話はワンセグ携帯で レンズが何処にあるのか分かり難く、 祖父も何処を見たらいいのか戸惑っていたが、 とてもいい写真が撮れていた。 祖父の和んだ笑顔、キメ顔をした姪っ子、 微笑む妹。 何かにこの幸せな時間を残せるというのは とても良い事だと感じた。 私も姪っ子と弟と共に撮られたが、 眠っていない事と、お酒を飲んだいた事で 顔がパンパンだった。でも健康そうに見えたので それだけは良かったと想っている。 やっと、近所のスーパーが営業を開始した。 元日はお鍋の材料を買うために 午前中に行ったけれど、 こうしていつもの感じで出掛けられたのは 5日振りであった。 ジャスコは、品揃えも良いし冷凍食品も安い。 調味料の類も発泡酒も安値だから お得な感じはある。 けれども、広さと人の多さ、 各コーナーで流れるそれぞれのミュージックと その賑やかさは精神的な負担となっていた。 家に帰り着く頃には、本当にぐったりした。 それに比べて、いつも利用しているスーパーの 静けさと落ち着きには改めて吃驚した。 ジャスコに行く前の私であったら、 今日くらいの人出でも、 「しんどい」と感じたかもしれないが、 大袈裟に言うと何処に何があるかを完璧に 把握している私にとっては、 何だかとても買い物が楽だったのである。 携帯電話の電卓機能を駆使しながら とぼとぼ色んなコーナーを歩きながら、 いつも購入しているものをカゴに入れていく。 母と共に、 「何か、やっぱりここが落ち着くねえ。」 と言いながらココアをシェアして飲んだ。 ジャスコはジャスコで良い所がある。 でも今の私にとっては、精神的な負担が 大きいと気付いた。 近所のスーパーはお惣菜類が半額になるので それを利用すれば、予算を超えなくて済む。 そしてリカーショップでは顔馴染みの店員さんと 年始の挨拶をした。 いつもカップ酒を買っていたのであるが、 それでは余り経済的でないの為、 同じ銘柄の、量が多い紙パック酒を購入した。 そして試してみたかった濁り酒も。 これもまた、同じメーカーが出しているお酒である。 家に帰り、色々な片付けを済ませてから、 わくわくしながら濁り酒をお猪口に一杯 飲んでみた。 香りは、雛祭りで飲むような白酒のようで 最初にほんのりとした甘味があり、 最後に酸味が残った。 アルコール度数は、日本酒でも 低い方なので、少しずつ飲もうと想っている。 やはり私の楽しみが、お酒に傾いている事を感じる。 でも、酔えない。 少し、身体やこころの緊張が解れる位で ふわふわしたり、ぼーっとしたり する事はない。 多分、量はそれほど飲んでいないからかもしれない。 考えてみたら、お酒を沢山飲んでいた 大学生の頃より、およそ半分の量に なっている。 それは、太るのが怖いからであろう。 だったら水でも飲んでいれば良いのかも知れないが、 何か味のあるものを欲している。 そうする事で、何も食べないで済んでいる。 発泡酒だと、その炭酸でお腹が膨れるし、 日本酒はお米から出来ているので 何だか満足感がある。 兎に角、お酒は適量にしておきたい。 果たして今年、妹は結婚するのであろうかという事が疑問である。 今年から、姪っ子は幼稚園に入園する。 その途中で苗字が変わると、 色々と面倒な事が起きる。 またそれは、小学校に入ってからでも 同じである。 妹は、去年親友を超えた家族以上の 繋がりを持っていたKちゃんと死別した。 その事で、もう1人の親友と大晦日に 大喧嘩をしたそうである。 そのもう1人の子が、実はKちゃんに 対して、自殺する前まで 物凄く冷たい態度をとったり 邪険にしたりしてきたのである。 その子にとっても、Kちゃんが 自殺したという事はかなり深い傷と なっていると想う。 そして妹は、其処まで思い詰めていた Kちゃんの動向に気付けなかった事を 今でも悔いている。 一応、その子とは年明けに仲直りしたと言うが 【人の命はこの世の中で何よりも重く尊いもの】 だという事を改めて感じた。 今もまだ、こころに苦しみを抱えている妹。 きっと、自分ひとりが幸せになっていいのかと 悩んでいるのかも知れないと感じる。 でも多分、Kちゃんは妹が幸せになる事を 願っていてくれる筈である。 姪っ子も、Kちゃんの事を覚えていて、 髪飾りをしているのを「可愛いね」と言うと、 これは神様の所にいるKちゃんが贈ってくれた プレゼントだから宝物だと言っていた。 少しずつ、少しずつ、彼女達の良い想い出と なればと考える。 私は、自分の命を蔑ろにしている。 常に己に対して自己嫌悪の念を感じ、 生きている事に対して申し訳ないと考えている。 周囲に迷惑ばかりかけいて、 少しの躓きで“死”を考える。 「私など、生まれてこなければ良かった。」 幾度となくそう想った。 だが、生まれてしまった限りは、この命を 全うしなければならない。 そして母が私を産んだ理由、想いを 成し遂げるまで。 だから、其処に自分の意志はない。 ただ、母が生きているから生きている・・・ 病気の治療途中で今までやってきた事を放棄する事は 主治医やカウンセラーをも裏切る事になるから 生きている。 私自身の意志が、何処にあるかも分からない。 元々、優柔不断で何をどうしたらいいのか、 自分は何をしたいのか分からない。 私はこれからどうやって生きていきたいかさえも。 だから、母の命が尽きた時点で、私の命も終わる。 それで良いじゃないかと、投げ遣りになる。 ただ、観月ありささんの活躍を楽しみにしているのは 自分の意志であると感じている。 彼女の出演する番組を観たり、舞台を観劇したり、 ドラマを観たりする事。 実は、この意志があったからこそ、 父と母の関係が険悪になり 毎日父が母を一方的に怒鳴り罵言を浴びせる 様子を感じても、どうにか生きてこられた。 以前にも記したように、ストレス性胃炎を 患ってそれでも病院へ連れて行ってもらうのは 症状が出始めてから遅くなってしまったが。 私にとって、観月ありささんが唯一の生き甲斐だったのであろう。 そしてそれは、今でも変わらない。 彼女の活躍を感じると嬉しくなるし、 1月9日から始まるドラマも楽しみである。 だから今は死なないでいようと想う。 死んだら母が哀しむから。 そして観月ありささんの活躍も見られなくなるから。 生き甲斐は、他にも色々あると想う。 もしも病気が治ったときの事を考える。 病気が治る事があれば、美味しいものを 嘔吐するという事など考える事無く頂きたい。 勿論、太ってしまうという事も考えず 目の前にあるご馳走を、こころから感謝して頂きたい。 それが、最終的な目標かも知れない。 人間は、食事をしないと生きていけない。 人間から“食”を切り離す事は出来ない。 その、食べる事に病気を抱えてしまっている現在を どう生きていくか、それが問題である。 摂食障害は、病気であると何度も記したように、 過食や嘔吐という症状も、“今”の自分を どうにか保つためのものだと考える。 この症状は、【緩慢な自殺】とも言われている。 死を招く症状だからである。 でも、そういう症状を丁寧に扱う事で 少しでも母の為に生を延ばしたいと想う。 息を繋ぎ明日を迎えることに対して 感謝の気持ちを忘れないでいたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.06 23:27:34
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