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カテゴリ:抑うつ感
突然の雷。 長い時間轟いたかと想うと 激しい雨が降り始めた。 もしもこの闇夜に1人でいる時に 雷や地面を激しく打つ雨の音を 聞いていたら不安に押し潰されていたであろう。 でも、家には母がいた。 それだけで、私はこころの安定を保っていられた。 どうして生きねばならないんだろう。 そう自分に問うと 「産まれて来たからだ」 と私の中の何かが答える。 生きていく事や、それに関する事柄が 全て、煩わしい。 自分が生きている事自体、鬱陶しいと 自分に投げかけるが、 私の中の何かは沈黙したままだ。 母が生きているから、生きている。 しっくりくる答えはこれだけである。 私が死を選んだら、母は生きていけないと言った。 こんな私が、何の役にも立たない私が どうして母の生き甲斐なのだろうと 不思議に感じるけれど、 それはきっと子どもを産んでいない私には 分からない事なのかもしれない。 生まれて3年でこころを病み、 それは治る事無く 他の様々な病気をも招き寄せた。 それらを背負い、生きている事に疲れたと 主治医に言っても 話はいつの間にか他の話題に及んでいる。 「生きている事に疲れた。」 私の頭の中は、その言葉が ずっとずっとこびりついている。 毎日の過食と嘔吐。抑うつ感に覆われて動かない身体。 凍りついたこころ。 いつも身構えているから、疲れる。 何故身構えるのか。 それは、これ以上傷つきたくないという想いが 強いからであろう。 自分の【誇り】みたいなものを 散々傷つけられてきて、私はぼろぼろだ。 でも、ほんの少し残ったプライドを 守るため、私は身構えている。 それを捨ててしまえたら、 私は生に対する執着も捨てられるかもしれない。 結局、私は母がいるから生きていかねばならない という想いと共に 「母と共に生きていきたい」 という想いがあるから、死ぬ事ができないのだろう。 もしも、この世に何の心残りもなかったら 既に命を放棄していると考える。 笑っているのは、上辺だけだと痛感した。 顔は笑っていても、こころは塞いでいる。 何が楽しかったのか、面白かったのか もう分からない。 ただ、朝陽が昇って朝になり 夕陽が沈んで夜になるという そんな1日を呆然と眺めているだけである。 夜になれば、過食と嘔吐が待っている。 うんざりしながら、機械のように私は動いて 食べて吐く。 それだけである。 もう、「どうして食べてしまうのか」とか 「丁度良いところで食べるのを止められないのか」等 考える事さえ苦しい。 生きていく事もままならない。 それでも、生かして頂いているのだ。 雨風を防いでくれる家があり、 このPCで自分の想いを綴る事ができて そして安らかに眠れるお蒲団まである。 私は傲慢だ。我侭だとつくづく感じる。 生きているのが辛いのなら、 生きていて楽しいと想えるように 努力すべきではないか。 だけど今は動けない。動かないと、何も得られない。 高校生や大学生の頃、人とあんなに楽しく お喋りに興じていた自分が不思議で羨ましい。 今の私は兎に角何の努力もしていないのに 生きる事について苦しい面ばかりを 見ているだけである。 これは改めねばならないと考える。 母のお陰で、生きていられる。 1人の思考、殻に閉じ篭ってしまうと マイナスの方向、ネガティヴな考えへと 暴走してしまうのであるが、 母と過ごしている時間を思い起こすと ほのぼのしている。 「もう何もかもが厭だ」 という取り留めのない どうしようもない考えは、 一旦頭の隅に追いやられて 私はぼんやりと、 「母さんとこうやってお酒を酌み交わしながら 過ごす時間は幸せなんだな。」 と感じている。 そういった時間の中で、きっと私は 自分らしさとか 本当は笑う事が大好きだという事を 取り戻せるのかもしれない。 だから、どんなに生きるのが辛くても 苦しくて全てを放擲したくなっても 諦めないようにしたい。 生命とは、価値があるとか無いとか そんなもので区別されるものではないという 主治医の言葉を想い出す。 私は気付けばいつも、 「自分は存在価値の無い人間だから 生きていたって仕様が無い」 そう考えている。 これこそ、傲慢な考え方かもしれない。 自分1人でここまで生きてきたのではなく、 周りの沢山の人々のお陰で 私は成長し、今を生きていられるのだから。 いつの間にか、感謝の気持ちを忘れていた。 今一度、自分のこころを戒めて 潔く生きていけるような そんな人間になりたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.03.28 01:11:12
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