『甘える事』は大切な事。
病気を患っていても、よく耳にするのは、『甘えるんじゃない!!』と言う言葉である。特にこの言葉は心や脳の病を患った人に向けて良く言われている。しかし、人間関係は『甘え甘えられる』事によって成り立っている。自分で抱えきれない出来事を、少し人に頼む事も、それを受け容れる事も、甘えと甘えられると言う関係若しくは頼り頼られる関係である。ただし、甘え方は考えなければならないのである。甘えが過ぎればそれは『依存』となってしまうし、余りにも『甘え』を拒絶したら、乾ききった人間関係となってしまう。『甘え』は人間関係の潤滑油である。しかし心や脳の病気を患っている人達にとって、それは私も含め『甘える』と言う行為に後ろめたさを感じてしまうと思う。私の場合、生きているだけで迷惑をかけているのであるから、これ以上甘えたり頼ったりしたら、拒絶されたり見棄てられるのではないかと不安を引き起こすのである。今の私にとって甘えられる存在は、母・主治医・カウンセラーである。最近母との関係が上手くいっているのは、『甘え、甘えられる関係』が少しは成立しているからであろうと痛感する。また、カウンセラーは私の体調を慮って下さり、カウンセリングの日程を私が苦しまないでいいように案を練ってくださる。そして主治医は、私が通院できないから電話での診察をして下さる。最初の頃は電話をする事も申し訳なく、迷惑なのでは・・・と思っていた。しかしこの動かない身体、外出できない心身を想い、電話診察に甘える事にした。そして自分の詳細はきちんと話すし、深い話もする。主治医も迷惑だと言う事等一言も言わないし、「無理して病院に来るくらいなら電話でいいから」と仰る。フラットな感覚で軽い甘えとうものは生じているのであろう。母にも最近は随分甘えられるようになった。勿論母は仕事の為出来ない家事は私に頼んでくれるし、私も苦しい時や哀しい時、泣いている時に母へ身体を凭せ掛ける様に泣けるようになった。これは子どもの頃鬼の様に恐く暴力を振るってきた母ではなく、優しい朗らかな本当の母と触れ合っている気がするのである。人間、追い詰められたら捌け口が必要となる。私の母は、父から、そして父方の親戚中から苛められたり詰られたりしていたので、鈍臭い私が捌け口となってしまったのであろう。『罪を悪んで人を悪まず』である。この考えが私にはある。母は暴力と言う形でしか心の苦しみを現せなかったのであろう。とても辛かったと思う。24歳からそんな男尊女卑の代表の様な父の家に嫁いだのであるから・・・・今日は風に揺れる育ち続ける稲の緑が綺麗であった。夕陽はそこらじゅうをオレンジ色に染めていき、暖色に包まれた風景は例え人工的でも柔らかい。日の落ちかけた頃の空気もまた心地良い。今朝方までかかった過食嘔吐は熾烈さを極めたが、今日は慌てたり混乱したりする事なく、落ち着いて自分を見つめこれからの事を噛み締めたいと感じる。