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鴨緑江の街丹東生まれのあれこれ

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2014/01/20
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「自分史抄禄」 第1部出生から生い立ち

『始めに』

平成9年秋今までの人生で最も長い期間を過ごした不二製油を定年退職して郷里の岡山へ帰り半年間吾身のオーバーホールと母の看病をしながら1年間だけだった第2就職で大阪へ新幹線通勤をした。

その後は日々病院の母の見舞と余暇を岡山朝日高校の同期連とのスポーツを中心とした交友で過ごしてきた。一方妻も旧友との交友や庭弄りを楽しんでいたが平成10年の夏突然妻の次兄が肺癌で亡くなったのに続き年末に私のたった一人の姉も脳出血により急逝しました。

私はこれを機会に以前から考えていた「自分史」に取り掛かる事にしました。実はこの直後私の人生に於ける最も大きな出来事であった満州引き揚げに関するドキュメンタリー映画「葫蘆島大返遺」を見た事が大きなきっかけになったのです。

第1部  出生から満州引き揚げ迄

「出生から敗戦まで」

私は11年5月12日旧満州帝国安東市掘割南通り出生した。当家は摂津池田城主の一属だったが木村村重の乱で一族離散し我が一族は一時岐阜の森家に仕官し主家の移封に因り津山に移りのち故あって帰農し岡山県の久米に土着し天領の庄屋を務めていたが明治以降祖父が事業に失敗した後政治にに手を出し県会議員迄なったが結局家財の大部分をなくした。

母の寿は岡山県真庭郡で村長を務めていた旧家の四女である。結婚当時父母は東京の中野に住んでいたが父の転勤に伴い鮮朝の京城、満州のハルビン、安東、新京と移り住みその間姉が京城で生まれ七年後私が安東で生まれた訳である。

開戦1年余前に父を新京に残し我々母と姉弟は一度帰国したがの日本の食糧事情の悪化により1944年の再渡満しその儘新京で敗戦を迎えた。

この間私は岡山県北の勝山国民学校に入学し新京の八島小学校に転校し次いで西広場小学校に転校後間も無く敗戦となった。

「敗戦から引き揚げまで」

当然のことながら終戦の日から全てが変わりました。先ず中国人と日本人の立場が逆転し何時の日からかは定かではありませんが一部の貧しい満人(当時の呼称)たちが集団で日本人の住宅を襲い命以外の全てをさらって行く恐ろしい夜が続きました。私も子供心にあの「わっー」と云う叫びをはっきりと覚えています。何とも云えない恐ろしい雄叫びでした。何しろ大集団なので後ろの方は目ぼしいものは残っておらず着ている衣類まで脱がされたそうです。我が家は奇跡的に彼等の襲撃を免れました。

我が家では16歳の姉は頭の髪を切って男装し外出は一切せず何かを感じたら直ぐに天井裏に逃げれるように布団を引いて待機しており私が使った踏み台の椅子を外す役でした。

敗戦後新京から長春に名前が元に戻り先ずソ連軍が進駐し彼らが撤収した後国府軍,中共軍が長春の争奪戦を繰り返し我々日本人達は必死に生きるための努力をしました。

其の後引き揚げが始まったのは翌年の夏以降でしたがそれ迄は全く予測もつかず只その年の極寒を如何に過すか、食料と石炭の確保が死活問題でした。幸にも我が家は自分の家に住めた事で家財の売り食いで何とか凌ぐ事が出来たのでした。

だんだん寒くなってきた頃ソ連参戦時北朝鮮へ避難した人達がぼつぼつと帰ってくるし北満からは着る物も無く僅かに穀物を入れるドンゴロスに首と両手の穴を開けて身につけただけの集団が続々と新京に逃れ込んできました。

何百Kmも歩いての逃避行です。新京の邦人たちは極力部屋を提供したり食事の炊き出しをして迎えましたが何しろ大勢であり自分たちも余裕があるわけでもないので彼の殆どは窓ガラスも無くまして暖房も無い学校や倉庫であの極寒の冬を過したため寒さと飢えにより多くの人が命を落としました。新京に辿り着く前にお年寄りや幼児の多くが亡くなっていました。

この後すぐ長春は八路軍(中共軍)と国府軍との争奪戦の場となって数回か入れ替わりました。丁度我が家が面していた大通が両軍の最前線となったので我が町内は激戦時は何故か通報があって後方まで避難しました。

そうこうしている間に1年が経過し国府軍が新京を確保して何時間に日本人の引き揚げが始まったのでした。新京の日本人会では先ず北からの避難者を先に出発させて比較的余裕のあった我々の町内は最後の方でした。昭和21年の秋で新京はもう薄寒くなっていました。

荷物は持てるだけでしたから私は子供ながら自分の着替え等が入った大きなリュックを背負わされた記憶があります。お金は既に日本が新円になっていたとかで一人1千円のみでした。引き揚げ列車に乗った駅が南新京駅だったとは後日知りましたが当時私は幼少だったので知りませんでした。乗った列車は板だけの無蓋貨車でしたが予め聞いていたので落ちないように柵と雨を凌ぐテンを我が町内では用意しました。この間の事情は第2部(「私の満州引き揚げ録」)に記載した。

尚当時の写真は中国側の命令で1枚も持って帰ることが出来なかったので現存しているのは父の実家にあった僅か数枚だけです。満1歳の私と姉.jpgその中の一枚です(満1歳の私と7歳の姉)






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Last updated  2014/01/23 05:52:04 PM
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