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「自分史」第2部私の満州引き揚げ録 下 一時我が家の前の道をシベリヤに連行される日本の兵隊さんの行列が連日通った事がありました。私たちが彼らの通り過ぎた後に行ってみると石ころを包んだ紙包みが落ちていました。彼らが家族宛に書いた連絡メモです。私達は其れを拾って父達が日本人会に届けましたが果たしてそれ々の家族に届いたか如何か。 その後長春は国府軍と八路軍(中共)との争奪の場となり何度か入れ替わりました。戦闘が激しくなりそうな時は住民は後方へ避難したのですが此れは今考えると何故そのような情報と言うか連絡があったのか不思議に思います。 兎も角翌年の夏以降暫く国府軍が新京を確保している間に日本人の引き揚げが始まりました。先ず北から避難して来ていた人達を優先して送り出し10月なってから我々も出発して先述の如くほぼ1ヶ月位掛かって佐世保港に着き検疫のうけて上陸した。 佐世保港から数km歩いて南風崎と云う駅から列車に乗って岡山へ向かった。列車は木の座席だったが客車だった。 帰郷列車に乗るため南風崎(はえのさき)駅へ向かう引き揚げ者 上陸した時貰ったお米のおにぎりと味噌汁が美味しかった事と真っ白なコナを頭からかけられた事を覚えています。それから広島が文字道理焼け野が原だった事も覚えています。原子爆弾の事は新型爆弾としてうすうす聞いていました。しかし岡山駅から津山線に乗り換えた際に見た岡山の街も大同小異で一面焼け野が原でした。 さて漸く帰り着いた父の生家は父の姉弟の家族に占領されていて我が一家は父が長男でありながら肩身の狭いおかしな状況に置かれました。其れから父が岡山に出て職を手にする迄の約半年間の生活は惨めでした。 食べる事だけなら戦後の満州のほうがまだましな位でした。しかし思い起こせば私自身1つ運命の歯車が狂っていたら今の私は居なかったかもしれません。命を無くしているか残留孤児になっているかでしょう。こう思うと全てが忸怩たる想いに駆られます。これらの事は『自分史』第2部としました。 『付記』1.「私だけの体験」 終戦直前のある日私が一人庭で遊んでいた時の事です。突然一機の戦闘機が急降下して私目掛けて機銃掃射して来たのでした。気が付いた私は丁度傍にあったコンクリートの井戸枠の影に隠れ難を逃れました。 もし気が付かなかったら今日の私は居なかったかも判りません。見上げるとパイロットの顔が見え気のせいか私を見てにやっとしたように見えました。米軍機でしたが恐らく偵察の帰りの悪戯だったのでしょう。後で見たら傍に大人の小指大ほどの機銃弾がコンクリートに当たって先が歪で落ちていました。 何故かこの事ははっきりと覚えていますが不思議な事に怖かったか如何かは余り覚えていません。 尚この後米軍機が時折飛来し機銃掃射をするようになっていました。我が家の斜め前に郊外に行く幅の広いガードがあって其処へ逃げ込んだ満人たちを米軍機が機銃掃射して大勢が死傷したのを私は我が家の窓から見た事も覚えています。 なお戦争終結間際には新京の郊外にある飛行場等には何度か爆撃もあったようですが市内にはありませんでした。 『付記』2.「大遣返とは」そして丹東と長春への想い 大遣返とは「大規模な引き揚げ」と言う中国語だそうです。私は早いうちに生まれ故郷の安東(現丹東)と引き揚げまで居た新京(現長春)や引き揚げ船に乗船した葫蘆島にもう1度行ってみたいと思っていますがいまだにその機会がありません。 しかし数年前大阪で家内が友人の紹介で親しくなった中国のハルビンからの留学生の両親から長春に来たら案内してあげましょうと言ってくれているので何とかして取敢えず長春だけでも行ける機会を狙っています。尚彼らは清朝の愛新覚羅家の八旗(親衛隊)の中の一家である白家の末裔だそうで現在は哈爾濱で共に医者を生業としているそうです。 引き揚げルート 「後記」 私は1936年5月安東(現丹東)に生まれ4歳頃父の転勤で新京(現長春)に移り開戦1年前に父を新京に残して母と姉と3人は一度帰国しました。しかし昭和19年の夏日本の食糧事情が悪化した事により再度渡満した結果父と共に敗戦を迎える事になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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