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カテゴリ:中国東北方面旅行
長春会入会と長春会旅行に初参加 60年ぶりに満州引き揚げルートを辿るセンチメンタルジャーニー (06.6.8.~14) 私は昨年行った出生地丹東に次ぐ懐かしき街長春へ行きたくて日本長春会催行のこの旅行をインターネットで知り何はともあれ即入会し旅行に参加して引き揚げ後60年ぶりにして初再訪を果たした。成田前泊して大連経由長春の新空港に着いた時は夜になっていた。長春では中日友好会館に3泊した。 2日目 午前中先ず長春公園に眠る幾多の日本人達の冥福を祈った。ここにはソ連参戦前後に北満から言語に絶する苦難の末にやっと辿り着いた開拓団ほかの日本人が飢えと寒さで亡くなった幾多の人たちが墓標もなく眠っているのです。この後昨年NHKで放映された長春中日友好楼の残留日本人孤児たちの養父母を訪ねこの旅に参加されているこの友好楼を私財を投入して建立した故笠貫尚章氏夫人と養母たちとの涙の再会に我々も貰い泣きした。午後は旧偽満州国務院を参観、旧満映,南湖等を観光後各参加者の希望する思い出の地を順次回った。 3日目 昨日の残りを巡回する組と吉林観光組に分かれたが私は市内巡回に参加した。私がかつて住んでいた千鳥町、八島町、和泉町と父の勤務先の満州興業銀行本店ビル、当時よく遊んだ児玉公園や西広場と通学していた八島小学校と西広場小学校更に姉が通学していた敷島高女及び関東軍跡や当時の繁華街だった吉野町(現長江路)等を巡回した。満州興業銀行本店ビルと関東軍司令部が長春貿易庁と吉林共産党本部として使用されており我が一家が一時住んでいた八島町の興銀の独身寮は残っていたが他は全て跡形もなく再開発されて昔の面影はまったく残っていなかった。またメル友の宮岸氏に頼まれていた撫松路にも行ってもらったが正確には場所が特定できず推定場所の小石を3つ持ち帰り彼に送ってあげたら彼からは非常に喜ばれた。 多くの日本人が葬られている長春公園 曾て我が一家が住んでいた満州興業銀行の寮(低い大厦) 4日目 早朝長春駅から特快軟臥列車で引き揚げたルートを辿って葫蘆島の手前の錦州迄行き其処からは葫蘆島へ専用バスで向かった。錦州南駅で連絡しておいた伊藤忠OBのメル友で秦皇島の燕山大学で日本語を教えている三木さんが日本語の達者な生徒の姜彩蓉を連れて待っていてくれた。私はガイドの陳さん頼んでこの2人をバスに乗せて貰い共に2日間行動することが出来た。 現在葫蘆島港は中国海軍の原子力潜水艦基地とかで港へは入れなかったが港外の南側に傍に葫蘆島市政府が去る日本人の資金で建立したと言う日本人引き揚げ記念碑や引き揚げ船発着に使用された臨時埠頭跡に行き写真を撮った。しかし臨時に増設された簡易埠頭は60年余年間外洋の波浪にさらされていた為殆ど崩壊していて僅かにその痕跡を残していたに過ぎなかった。 私自身が実際に引き揚げ船に乗船したと思われる桟橋は確か港内に在ったと思ったが。葫蘆島市政府の要人の説明では此処に2年後には新しく中日友好公園を造る計画があるそうだ。この後集結した引き揚げ者が引き揚げ船に乗る迄待機していた馬杖房の収容所の跡を視察したがそれらしき馬小屋らしき建物が残っていた。私も此処にすじ詰め状態で収容されたようなほのかな記憶がある。葫蘆島市政府の要人とともに昼食会を行った後錦州に戻り2つの元収容所跡を車内から視察したが夫々小学校と病院になっていた。尚北大営(当時の日本兵舎=現中國軍隊兵舎)にも行ったが何れも車内からの撮影しか出来なかった。 この夜ホテルに昨年私を出生地丹東に連れて行ってくれた丹東同郷の岡山大学院留学生の妹弟達が待っていて熱烈歓迎をして呉れてたので吃驚したが嬉しかった。この夜は一行との夕食会を欠席して二組の友人たちと夕食を共にした。その後秦皇島へ帰る三木氏らを駅に送ってから私は彼らを誘って始めて中国のカラオケに行った。尚彼らから持てないほどのお土産を貰って困り三木氏らをバスに乗せてくれる便宜を計ってくれたガイドの陳さんに中国の漬物らしき物を貰ってもらった。 五日目 葫蘆島近郊の興城の古城観光に行ったが此処で我々は地元メディアにインタビューを受けた。この時の記事は地元新聞に載ると聞いたが実際に見ることは無かった。 6日目 大連へ向かった。途中バスの中から高校同期の森本君が引き揚げ前に住んで居た普蘭店を通ったのでそれらしき景色の写真を撮って帰国後彼に見せたら写真に写っていた山に記憶があると云って喜んでくれた。 葫蘆島の引き揚げ記念碑 興城でのインタビュー 大連でハーモニカを吹く 午後大連に到着し生憎の雨の中を大連市街及び近郊を観光したが風雨が強くなったので早めに切り上げて夕食まで暫し休養した。この日の夕食はフェアウエルパーティーだったので私は持って行った口琴(ハーモニカ)を吹いた。私は記憶に無いが引き揚げ船が埠頭を離れた時誰ともなく口にしたと云う「ふるさと」や引き揚げ船の船員から教わったと云う「りんごの唄」等多くのリクエストがあって盛りあがった。 終了後意気投合した加藤満雄さんに誘われて彼の中国人の朋友の孫さんの案内でカラオケに行ったら日本語の曲が軍歌から最近の演歌まで沢山あったので驚いた。 かくして予期以上の成果を得た旅は無事終わった。なお私は長春の中日友好楼を私費で建立した笠貫尚章氏の功績を是非とも後世に遺す必要性を強く感じて同行されていた加藤満雄氏(実は作家の穂積淳)に編纂を要請した所幸にも先生は快諾され笠貫未亡人に大変喜ばれた。此の上は1日も早い実現が待たれる。最後に葫蘆島市政府の御好意に感謝したい。謝謝 (この2年後笠貫未亡人が自費出版された中日友好楼建設の記録本には編者の好意で私の「私の満洲引き揚げ録」が掲載されている) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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