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カテゴリ:日中友好と中国人とのお付き合い
長崎ランタンフェスティバルと日中交流誌を探訪 初日先ず長崎名物の『ちゃんぽんのコース料理を食した後孔子廟や出島等を巡回し夜はホテルJAJシティ長崎の晩さん会で社長であり長崎華人総会の会長の陳東華先生より日中交流誌を講話を聴いた。 先生は来日中国人の4世の福建人である。初めて聞く長崎出島の歴史中心の内容は非常に興味深い話であった。 江戸時代当初外国人はポルトガル人播種で平戸が窓口だったがキリスト教の布教が激しく平戸藩主が危険を感じで締めだしたため江戸幕府は貿易の必要上新たに当時小さな漁村であった長崎を跡地とした。 日本の良質な銅の入手を目的に中国の貿易船が年々増加し最大3日に2隻唐船が入区したという盛況だった。 当初唐船の乗組員は民宿していたがあまりの多数のため賄いきれず平地の少ない長崎だったので新たに埋め立てた出島を創成した。 島には乗組員の宿舎は無論積み荷の倉庫や遊女屋さえもあったらしい。しかしこの出島も狭くなり土地には倉庫棟は本土に移されたと説明があった。 夕食後夜は何万個ものランタンが灯る中華街一帯を散策したが赤、黄、ピンクのランタンと人出に圧倒された。 翌日の午前中は端島、通称軍艦島に上観光行した。島は良質の良質な石炭の炭鉱で最盛期には人口5千を越し1つの街を形成していた。 日本初の鉄筋7階建ての鉱夫の家族アパートや学校もできてその遠景が戦艦「土佐」に似ていたことから軍艦島と通称されるようになったそうである。 この日は朝から怪しげな天気で上陸が心配されたが船が揺れはしたものの何とか大丈夫だった。 現在世界遺産に申請中だが出来るだけ現状を維持しながら保持する修復工事は非常に難しいと云われている。 昼食に卓袱(しっぽく)料理を頂いた後孫文・梅谷庄吉(ミュージアム(重要文化財となっている元香港上海銀行長崎支店)を訪れた後近くの土産元街を散策し帰岡の途についた。 写真は次報で お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015/03/03 11:32:30 PM
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