戦争の悲惨さを語り継ごう
私は満州引き揚げ者で戦後日本政府から棄民されたが米中の都合によって辛くも帰国できました。
今日は数ある戦争被害者の中で満州開拓団に入植された方の2世の辛苦の体験談を披露します。
これは戦争が残した悲惨な事象の1部に過ぎませんが私たちはこの事実を歴史認識として後世に語り継ぎ如何なることがあっても不再戦を誓いましょう。
中国残留日本人孤児の足跡 高見 英夫(通訳:西上普美) |
日本語が難しいので中国語で話します。
私の出身は岡山県賀陽町で、昭和12年に生まれました。
2才のとき、父と母と兄の4人で、中国黒龍江省林口県の開拓団に行きました。
林口県竜爪開拓団に5年間いて、7才のとき大きな町に移動しました。そのときには現地で生まれた2人の弟と2人の妹とで8人家族になっていました。その後、1人の弟と1人の妹が5才になる前に亡くなったので、逃避行のときには6人家族になっていました。6人のうち今生きているのは私一人です。
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| 昭和20(1945)年8月13日、ソ連軍が侵攻してきたので山中へ逃げました。幼い弟と妹は父母がおんぶして4日間、飲まず喰わずで逃げ続けましたが疲れ果てたので、山の中に小屋を作って、その中に弟と妹をかくしました。2人を生き延びさせてやろうと思ってかくしました。そして又出発したわけですが、道に迷って2日間さまよい歩いて戻った所が元の小屋の所でした。小屋にたどり着いて中に入りました。そこには弟と妹の姿はなく、そこに残っていたのは・・・(嗚咽)血まみれの衣服だけでした。おそらく狼に噛み殺されたのだろうと、私たち4人は、その場で悲しみのあまり、4時間ほど泣きつづけました。(会場からすすり泣きの声・・・)
その後また逃避行を続け長春市まで逃げてきました。長春市に着いた次の日に母が亡くなりました。母は、弟と妹が亡くなったとわかってから後は、もう気がふれたようになっており、食事ものどを通らない状態で弱っていました。トラックがやって来て、母のなきがらを乗せてどこかへ運んで行きましたが、どこへ運ばれたのか知るよしもありませんでした。
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断腸の思いで当時を話す高見英夫さん
(右は通訳担当の西上普美さん) |
長春市に3日間おり、残った3人は又逃避行を続けて、奉天(現:瀋陽)へたどり着きました。奉天の駅には、避難民がたいへん多く、死者も多くて、毎日、トラック4台で運ぶほどの死者が出ていました。
その後3人は、イギリス人[注 イギリス人ではなくカナダ人の白救恩(バイ・チュウ・エン)と云う医者]が作ったという医科大学附属病院に連れて行かれました。父は林口県を出たときから傷ついた足をかばって歩いていましたが、とうとう歩けなくなったので、病院へ入院することになりました。兄と私が病院で働いて、父の入院費を払うことになりました。3度の食事と治療費を病院が負担してくれるという条件で、私たち兄弟がそこで共に働くことになりました。昼は豚の世話をし、夜は豚と一緒に寝起きする毎日でした。兄が足の故障で入院しなければならなくなったので、私一人が働くことになりました。食事は父と兄に食べさせて、私は残飯を食べておりました。父は入院後1ヶ月で亡くなりました。亡くなる2日前に、兄と私を枕元によび、もしも日本へ帰国できたら、故郷の墓へ入れてくれと言って、髪の毛と爪を渡しました。
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そのあと私と兄は、中国人養父母のもとへ、それぞれ預けられました。中国国内で、共産党軍と国民党軍の戦いが激しくなり、瀋陽市が八路軍に取り囲まれるという事態になったので、養父母の出身地である山東省へ逃れました。山東省まで約1,500キロ、3ヶ月の逃避行の間、養父母と姉と妹、それから双子の幼い兄弟の世話をしました。まず双子の兄弟に食事を与え、また他の家族の食糧の調達に出かけなければなりませんでした。苦難の連続でした。
1949年、瀋陽市が解放されたので帰りました。1956年、瀋陽市にある機械工場に就職しました。それまで学校に行ったことがなく、すべて独学で勉強してきましたので、他の人と比べて知力では劣っていると思っていましたから、体力で負けないようにしようと頑張りました。日本人ということもありましたので、工場の上役の信用をもらうために、中国人が80%の仕事で済ますところを、120~150%働きました。
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思い出すだに悲惨な過去。涙ながらの高見さん |
11,000人の大工場で、人の倍以上働いて技術を向上させました。日曜日もただ働きをしました。この努力が認められて共産党幹部に推薦され、その後、財務関係の仕事に従事するようになりました。
やがて日本へ帰る日がやってきました。1992年、帰国して総社へ永住するようになりました。55才になっていました。5年間働きました。会社で働いている間、ずっと中国人と言われ続けてきました。60才になったとき、会社の上役から定年だから辞めてくれと言われ、5年で辞めさされました。その後、再就職をめざして、職業安定所に行きましたが、言葉の面、運転免許を持っていないということで再就職がむずかしくやむを得ず生活保護の申請をすることにしました。生活保護費と年金を合わせて、私と家内の二人暮らしで1ヶ月、105,000円です。住居費、光熱費などを差し引くと、手許に残るお金は5万円にしかなりません。これで1ヶ月2人が生活していかなければなりません。
私の養父の妹が70才以上になって体が弱り、入院しなければならなくなったので、中国に会いに行きました。飛行機で行けば、7万~8万円かかるので、安上がりの船(3万円)で行きました。8日間の訪問でしたが、その間の8日間の生活保護を打ち切られました。
今回、私たちが国家に対して賠償責任を取るようにと裁判を起こしているのは、普通の生活水準で暮らして行けるようにしてほしい。ただそれだけを願って訴訟を起こしているわけです。
1年に1度でいから、われわれ残留孤児を墓参りに行かせてほしい。あるいは、養父母がまだ生きていれば、多くの回数見舞いに行かせてほしいと願っていますが、日本政府は認めてくれません。私は今68才になりますが、養父母がここまで私を育ててくれた恩は決して忘れるものではありません。
テレビを見ていましたら、中国各地の反日デモの様子が放映されていました。反日運動が起こる背景には、いろいろな面がありますが、その一つに小泉首相の靖国神社参拝の問題があります。中国人がこのことについて、どうして敏感に反応するかというと、やはり先の戦争で多くの中国人が亡くなったという歴史があり、戦争を起こした戦犯が靖国神社に祀られているという事実があるからです。
日本と中国が仲良くすることは、両国にとって有益なことです。争を起こすことは、お互いに何の利益にもなりません。私が日本と中国の首脳に望むのは、どのようにして日中友好関係を存続させていくかを熟慮し、日中両国が共に発展していく道を切り開いてほしいということです。(岡山市日中友好協会誌掲載) |