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カテゴリ:為替
1970年5月5日、カンプチア王国民族連合政府が成立、中国によって正式に承認されました。
1970年から1976年まで北京に存続していた、カンボジアの亡命政権です。 ロン・ノル政権の成立でカンボジアから追放されたシアヌークは北京へ亡命。 毛沢東・周恩来や北朝鮮の金日成らの強い説得によって、かつての敵だったポル・ポト派と手を組み、民族連合政府を成立させました。 この政権は、成立の時点から内部矛盾を抱えていました。 農民の支持の高いシアヌークと、米国からの支援を受ける反ロン・ノルのポル・ポトのクメール・ルージュは、アメリカ軍の空爆を受けている地域を中心に支持を集めましたが、地域のクメール・ルージュは王政に対して断固反対の立場を堅持していました。 シアヌークは1973年にカンボジア人民解放軍の解放地域を訪問して、農民の人気を集めましたが、ポル・ポト派は快く考えていませんでした。 クメール・ルージュは北ベトナム軍と組んで戦闘を続けて勢力を拡大し、ベトナム戦争でも北ベトナム軍は優勢に立ちました。 1975年にクメール・ルージュがプノンペンを陥落するとロン・ノルは国外に亡命。北ベトナム軍は南ベトナムのサイゴンを攻略してベトナム戦争が終結しました。 1978年12月にはクメール・ルージュは分裂を見ます。 反ポル・ポトのヘン・サムリン派が、「カンプチア民族救国統一戦線」を結成、ベトナム軍と共にクメール・ルージュとゲリラ戦に突入して、中ソ対立の代理戦争がつづきました。 反ベトナム=反ソビエトで結束するアメリカ・タイをはじめとする西側諸国は、ポル・ポト政権の国連での代表権を1979年9月に承認、クメール・ルージュはタイ・アメリカ・イギリスの支援によって地雷原を造りました。 このような交錯した利害関係は、クメール・ルージュ統治下での虐殺行為の全貌が明らかとなる事を妨げる要因となったようです。 ポル・ポトら関係者が死去した2006年に、クメール・ルージュ特別法廷の運営が始まり、関係者の裁判が本格稼働しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.05.05 11:43:31
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